祇園囃子が聞こえてくる。
「(・・始まってる。)」
ボルボの後部シートで寝転びながら小野筱は顔をそちらに向けた。
スポンサー兼氏子の父に手伝わされて、昨日からろくすっぽ寝ていなかったので、宵山が始まるまで車で仮眠していた。
お座敷に上がると氏子衆から引っ張りだこにされて、寝るどころではなくなってしまうからだ。
父はエンジンを掛けっぱなしにして、クーラーを入れてくれていた。
30分のつもりが、一時間超寝ていた。
「(・・・京都がまたこれで暑くなる・・。)」
筱はキーを取って、エンジンを切った。
車から外に出る。
暑気は残るも料亭脇の駐車場は、夕方を迎えて涼しくなりつつあった。
「・・・・。」
違う。筱は目を細めた。雲が広がってきていて、夕立の前兆だった。
「あ、篁!。」
「・・・・・。筱だ。」
「筱。どこ行ってたんだよ。」
名前を間違えるのは、既に合言葉みたいなものだった。
幼稚舎の年長くらいは入ろうと、今年から通い始め、新学期早々なつかれたのがこれだった。
「(女の子よりマシだけど。)」
同輩の友達なんか馬鹿ばかりで作る気は無くて、入園式の挨拶に来ていた議員の「高村」を適当に名乗った。
校長でも良かったが、なんとなくしっくりきた。
橘融は目を盛大に見張って、すごく嬉しそうに笑って、うんわかったと言った。
それで、しばらくタカムラタカムラ呼ばれていた。
そして今でも呼ばれるのだ。
保育士が違うと教えてくれたにも関わらず。
「俺、ずいぶん探したんだぞ。」
「いいよ。探してくれなくて。」
「えー。俺だけで、この荷物全部持てっていうの?。」
「は?。」
融がボルボのトランクを開ける。
「親父が警備に当たってるから、差し入れだってさ。親父達、手が放せねーから、俺、差し入れ持って行くんだ。おまえも行かないか。」
「・・・わかった。」
父親達の代わりだというのなら仕方ない。
ショルダーバックほどの保冷袋を取り出す。
寝ている間に父が買ったのだろう。
「・・・重い。」
呻きながら融は地面に置く。
「中身はなんだって?。」
「ハーゲンダッツのアイスクリーム。」
・・・・それは気合入れて運ばなければならない。
二人とも襷を巻いた。
氏子姿で浴衣だからだ。
「雨が降ってくるからさ。早く行こ。」
「わかった。」
トランクと車のドアを閉め、確認して、アイスクリームに向う。
融と一緒に袋の紐を片方ずつ持った。
「レディ・・・GO!。」
少年達は同時に走り出した。
雨が盛大に降ってきた。
父親達に手伝わされて、展示していた山や鉾にビニールを掛ける作業をした。
良い所のお坊ちゃんなんだからそんなことしなくてもいいと言われると、それはやれと言われているようにしか聞こえない。
雨具を着て、意地になって手伝っていた。
真昼の暑さを思えば夕立のこの雨は気持ちよかった。
融は俺もお坊ちゃんだから一抜けた言ったら、逆に父親に連れて行かれた。
まあ、そんなものだろう。
筱は溜息をついた。
この雨はすがすがしい雨だった。
だけど、綺麗過ぎる気もした。
こんなことはいくらでもあった。胸騒ぎの時もある。
衝動に駆られて走った時もあった。
勉強や知識を蓄えることによって、今はセーブが出来るようになり、人付き合いも表面上は出来るようになった。 だが、自問自答する心は変わっていない。
俺はこんなところにいていいのだろうか。
答えはいつも『良くない』だ。
傍にいたいのは?、
助けたいのは?、
それがわからない。
探しても、存在がない。
だから、幼稚園に行っても失望しただけだった。
「(・・・やば・・。)」
くんと俯いた。
考えていたら、また衝動に駆られそうになった。
意識を反らす。
料亭の濡れ縁が既にびしょぬれだった。
今は6時。
宵山はまだ始まったばかりだ。もう少ししたら止んで、京都にしては涼しい夕方になるだろう。
その時だった。
「あ、篁!。」
料亭の垣根の向こうで声がした。
融の河童姿が見えた。
「・・・・しのぐ・・・。融?。」
筱だとお決まりに応えようとして、違和感を感じた。
融の水溜まりを駆ける足音がどんどん遠ざかっていくのだ。
「融?。」
慌てて、垣根に向う門を出て、路に出る。融の背中はずっと向こうだ。
「融っ。」
叫ぶも雨がかき消す。
誰を追いかけてるんだよっと思う。
こんな雨の中、大人を呼んだほうがいいかもしれない。
判断に迷うも、もう少しで雨は止むと踏んで駆け出した。
筱は、時々こうして走るのだと聞いていた。
父親が教えてくれた。
だが幼稚園に来た彼はそういう挙動があるとは思えないほど冷静で且つ沈着で。
なんだフツーだと思った。
でも一応父親から聞いていたから、筱が空を見上げたり、前方を凝視したり、地に視線を落としたりするなら、倣っていた。
筱は賢くて気配りも出来て礼儀正しかった。
多少自分にはぞんざいな態度を取るも、否定されたことは無かった。
これが誰かさんだったら、無下ぐらいにはするだろう。
誰かはわからない。
けどいつか会えると思っている。
正直筱はそれに近かった。だから無性に嬉しかった。
篁と嘘を名乗った筱に最初は怒ったが、謝らないのでそのまま呼んでやっている。
筱は持ち前の運動神経で駆けていく。融もそれなりに負けてはいない。瞬発力は劣るが駆ければそれなりに。
黒いレインコートを着た筱が、強い雨の中、五条の方へ走っていく。
「・・・・・・。」
そう、いつか会えると思っている。
黒いレインコートを着た姿がとある寺の前、その暗がりに消えていく。
融は激しく息をしながら、その暗がりに目を見張る。
その先には『 』がある。
「行ったこと、が、ある。」
よな。
思ったのもつかの間、融は中にずかずか入っていく。
行ったことがあるなら大丈夫だ。
「・・・・。」
暗い路も、ほの暗い明かりも、なんだか懐かしい。
見たことがある。
この静けさも聞いたことがある。
そして映画に出てきそうな大きなお城。
融は低い窓を見つける。
その向こうに黒いレインコートを着た彼がいる。
「あ、篁だ。」
見つけた。
見つけられた方は、その柳眉をつり上げた。
融はこの中に入っていった。
この中は・・暗い。
そう、あの世だ。
融はこの中に入っていったのだ。
「(どういう神経をしているんだっ。)」
筱には人には見えないものが少なからず見えた。
行ったのなら連れて帰らなければならない。
全く見えない融より自分がいたほうがいいかもしれない。
筱は慎重に中に入った。
坂の上、奥の方で融の整わない呼吸が響く。
「(早く追いつかないと。)」
穴の開いているうちに戻らないと、二人とも神隠し同然であの世に閉じ込められる。
筱は走った。
大きな建屋の明かりに照らされている融を見つけて、声をかけようとした時だった。
「あ、篁だ。」
「・・・・。」
筱は息を呑んだ。
融はこちらを向いていない。
誰に・・・言って?。
融は呑気に扉を回り込んでいった。
筱はその窓辺に立った。
「篁。こんなところにいたんだ。帰ろ。」
そして手を差し出した。
「一緒に。」
「・・・・。」
「おーい。篁。おーい?。」
ぶんぶんと手を眼前で振る。
「融。」
「うん?。」
かつてのように呼んだら、あっさり返事する。
「一発蹴らせろ。」
「は?。」
言うが早いか、蹴りが飛んできて一応前置きがあったので右足で受け止める。
「いったいなぁ。何すんだよ。」
「自分で帰れ。一人で帰れ。行ったことがある路だ。さっさと帰れ。」
「えええっ。やだっ。」
真っ向から全否定する。
「・・・・。」
融の無神経に対して『上手な』説明が思い当たらない。
筱は助け舟を出すことにした。
・・・・そういう融の神経を見習いつつだ。
「小野篁。」
『篁』と融が呼んだ。ここが冥界ならば一人しか思い当たらない。
衝動に駆られなかったのは、融が自分を差し置いて、且つあっさり篁を口説いていたからだ。
思いっきり冷静になれた。
融と篁。二人が振り返った。
「・・・・おまえもか。」
篁は頭を抱えた。
「帰ろう。」
手を差し出した。
どこに?。
鬼の帰る場所など無いと言うのに。
「え、あれ、筱。・・・・が二人?。」
「・・・・。」
雰囲気をぶち壊しにされて篁がやおら掴みかかる。
筱は前髪を押さえ頭を抱えた。
「区別出来てたわけじゃないのか。」
「わからないよ。」
黒いレインコート姿は一緒だ。髪も濡れているから、同じ様に撫で付けられていて。
「・・・俺は筱だ。・・・だとしたら彼が篁。おまえがそう呼んだんだ。それが正解なはずだ。」
「・・・・おまえこそ何者だ。・・・おまえは消失したはずだ。」
「そんなのは知らない。・・俺は小野筱だ。それ以外の何者でもない。」
折り目正しく言うところまでそっくりではないか。
篁は口元だけで笑う。
筱は腕組みをして尋ねる。
「ここは冥界か?。」
「ああ。」
「篁って言ったら、閻魔の片腕だからな。片腕なら、うちの先祖ってことぐらいわかってるだろ。」
「・・・・これと違って聡いな。」
「だったら、どうとでもなる。うちに来たらいい・・・・大体裁定者が、迷うのか?。」
「・・・・これと違ってえらそうだな。」
選択を迫られている。猶予は無く、機会もこれきりだ。
それがわかった。
冥府の静止も後押しも無い。
この身の一生のうちの、たかだか十年だった。
そして何物にも変えられない十年なのだろう。
そして失っていた十年。
「おまえにしてみれば、たかだか十年のはずだ。」
心を読まれて、篁はこいつムカつく奴かもしれないと思った。
思われた方の筱は、肩を竦めて笑う。
「ロングバケーションだろ。」
「・・・それは悪くないな。」
篁は掴んでいた胸倉を放し、変わりに襟足をつかんで、融をぐいぐい引っ張っていく。
「じゃあ帰るぞ。後は知らないぞ。」
「ああ。」
「やったあっ。」
融は満面の笑みで歓声を上げた。そして襟足から逃れて、篁に並んだ。
筱は最初心持後ろについた。
そっと二人を眺める。
けれど、歩みを進めて隣に並んだのだ。
「・・・・・・。」
のこのこついて行った感は否めない。
傷つけるかもしれない。失うかもしれない。
当然自分のせいだ。
けれど、
「(会いたい・・。)」
この心は止まらない。
筱と融が何か言い合ってる。
「え、親父に何も言ってきてないのかよ。」
「あたりまえだ。おまえが明後日な方向にどんどんいくから。」
「まずいじゃん。」
冥界の出口への路の途中で、融は雨具の内側、ズボンのポケットから携帯を取り出した。
「あ、あんまり時間経ってないや。」
コールをして、応答を待つ。
「あ、父さん?。え、・・あ、俺?。・・うわっ。」
おまえが先に走ってどうする!という怒鳴り声が受話口からした。
「・・とっ、とりあえず、ごめんなさい。」
あわてて謝った。そして父親の話を聞く。
「・・・え、あ、見えた?。うん。筱ならいるよ。・・え、あ、そうなんだ。俺の後を筱がついてったの?。」
おまえが挙動不審になってどうするんだ・・・と深い深いと溜息をつかれた後に、今、どこにいるんだと尋ねられた。
「え?。えーと。確か五条だ。・・・。」
そんなところまで行くなと言われたので、融は朗らかに言い返す。
「あ、それなら大丈夫だよ。篁が一緒だし。あ、筱の父さんにも言っておいて。一緒に帰るからって。」
一瞬の沈黙の後、迎えにいくと言った。
「え。あ、迎えに来てくれる?。じゃあ、博物館でよろしくー。」
それで通話を切った。
「・・・・・経緯とか脈絡とか全部省いたな。」
「簡潔さは時に大歓迎だがな。」
堂を抜けると、既に雨は止んでいて、イルミネーションが目に飛び込んでくる。
眩しくて目を細めた。
三人とも同時に後ろを振り向いた。
その暗がりはイルミネーションが明るければ明るいほど闇色だった。
やがて閉じられる。
「よかったー、閉じ込められなくて。」
融が呟いたのは全うな意見であった。
バス停で待っているとボルボが止まった。
融の父親が助手席のドアを開けた。
視線が篁と筱に向けられる。振り返れば、筱の父もドアの向こうの篁を見ていた。
「乗りなさい。三人とも。まだ祭りは終わっていないのだから。」
融の父親が促した。
[2008/12/6]
#小路Novelに戻る#
−Comment−