名前






平穏に満たされた屋敷を勾陣はまわってみる。
雲の切れ間に月明かり。
地に光。
風すらも、雨水で輝く。


勾陣は安倍邸の池の前に佇んだ。
月明かりが映ったから、視線を落としたまでだ。
その淵の反対側に、白い影が映る。
「・・・おい。」
少年のような声を、精一杯低くして、呼びかけられた。
勾陣はやれやれと額を抑えてあさってを向いた。
こちらに戻ってからの剣幕の再燃だ。
物の怪は眦をつりあげて、唸る。
「異界に戻れと言っている。」
「その必要は無いと言っている。」
すっぱりと言い返す。
「・・。」
物の怪はため息を一つついた。
彼自身もわかっているのだろう。
その姿のままでは、押し問答になるだけだ。
そして、やおら別のことを口にした。
「大した回復力だ。」
「・・。」
「あれだけの怪我だ。他の奴らならば瞬時て消滅していた。」
物の怪は晴明や仲間がいる場と違って、言葉少なだった。
「そのくらい強くいてくれ。」
「・・。」
「晴明を心配する気持ちはわかる。でも無理はするな。」
彼は踵を返した。
「・・。」
勾陣はなんとなく、言葉にした。
「おまえを呼んだ。」
「・・聞こえた。」
「うん。・・だから来たと思っている。」

「・・おまえの心まで縛った覚えはない。」
冷たく響く。

お互いの表情は見えない。
騰蛇は物の怪の姿で、自分は少しだけうつむいているから。
「・・。」
言葉は、さあっと、冷ややかにこの胸を滑り、
この心にたどり着いて、
熱くする。



なんて孤高なのだろう、彼は。



勾陣は不遜に笑って、首を傾いだ。
そして呟く。
「勝算はあったくせに。」

「あの時、あの場で、私はおまえを殺さなかった。」
「・・。」
あの異界であの戦場で自我を失って暴走した自分が、
この名を呟いた者を瞬殺しただろう。
晴明の他は、誰にも呼ばせない。教えない。
言わせない。許せない。
これは晴明の願いなのだから。


だけど呼ばれて、自分は殺さなかった。
逆上もしなかった。
「・・。」
物の怪が、変化を解いた。
凶将騰蛇。
自らはその次ぐと言っても、まるで及ばない。
その強さで最後まで倒れずに晴明のより傍にいられる彼を。
畏敬と憧憬の念でいつも見ていた。

だがそれだけならこの名を呼ばせるには足りず。

騰蛇が傍にくる。
この手を取って、自らの喉に当てる。
言葉と同じくらい熱かった。
「気に入らなければ、今にでも吹っ飛ばせばいい。抵抗はしない。」
温もりと優しさと驚きを、彼は昌浩から得た。
心を縛られることは、悪いことじゃない。
自ら証明している。


勾陣は薄く笑った。
「・・抵抗しないんだな。でないと、私は届かない」
見つめ返し、喉の手を顎に添える。
「・・。」
騰蛇は半眼になった。
が、抗しない。
自ら言ってしまったことだ。
視線を外してぼやく。
「・・しまった。」
「今更。」
わずかばかり脅迫気味に、勾陣は答えた。
くいと引き寄せて、
仰のぐ。
唇を触れさせた。

月明かりを受けた雨水が風に含んで輝く。
素っ気ないけれど応じて、気の済むまでさせてくれた。
温もりが優しかったから、
その肩を抱きしめた。




もう一つ、思い出す。
死の狭間、私は、おまえを呼んだんだ。

心を縛るモノは、名の前にあるだろう。





END
[06/2/7]

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−Comment−

Winに向かっている余裕が無く、
通常使用のMacで、拍手に書き込み。
只今8時半。朝っぱらから、衝動に駆られてしまった。