五月雨






 雨が降りそうだった。
 雨が降る前の生温く湿った空気が、室内に流れ込んできて、やや気だるい。
 頬肘をついて、外をぼうっと眺める。
 背後から、物の怪がぼそっと呟いた。
「これから、行事が目白押しなんだよなぁ。」
 昌浩はひくりと頬から掌をはずした。
「・・・そうそう、その通り。」
「御霊会に・・夏越祓、乞巧奠。」
 指折り数えられる。
「・・・・あのさぁ、一つ聞いていい?。」
「なんだ?。」
 物の怪は再び墨をすり始めた昌浩を見上げた。
「・・・・時々なんだけどさ、俺ってものすごーく、要領が悪いのかなーって思うんだけれど。・・この仕事の山が低くなっていかないのは、やっぱり俺のせい?。」
「・・・いや。半分が本当に忙しくて、半分があてつけだろう。」
「やっぱり、そう、思う?。」
「思う。」
 出雲から帰ってこっち、仕事が増えたような気がする。
 たった二ヶ月半で、仕事が滞って、しわ寄せがいって、人はイライラしたりするものなのだろうか。
 それを物の怪に尋ねてみる。
「おまえが、寛容なだけだ。」
「そっかー俺って寛容なんだ。」
「裏を返せば、鈍い。」
「・・こらっ。」
 ぱしっと物の怪の額を掌で弾いた。
 弾きながら、まあ、もっくんが手伝ってくれるからいいかぁなどと、うそぶく。
 ちょっと元気が出た。
 こんな些細なやり取りにもありがたみを感じて元気がでる。
「雨が落ちてくる前に帰れるよう、頑張ろっと。」
 と、筆をとった。
 物の怪が傍らにやって来た。
 後ろ足で立って、両前足で墨を掴むので、昌浩は瞬きをして、呟いた。
「白い毛、汚れちゃうよ。」
「洗えば落ちるだろう?。」
「そうだけど。」
 器用にしゃこしゃことすり始めた。
「・・・・。」
 昌浩はあとで洗ってあげようと決めて、文書の続きを書き出した。
「・・・。」
 足音がした。そろそろ講義が終わる頃合いになっていたので、陰陽生達だと思った。足音に続いて声がした。
「土御門殿の怪異と、安倍晴明様とのご病気とはなにか関係があるのではないだろうか。」
「・・そう、晴明様が倒れられたのも土御門殿であった。」
「何か怨嗟が・・・・。」
 声が通り過ぎて行く。
 昌浩がここにいるのを知ってて声高に喋っているのは明かだった。
「・・・・・・・。」
 二人の肩が、ひくりと震える。
 くるりと反転し、塗籠に穴を開けてでも飛び出そうとした物の怪の尻尾をはっしと昌浩はつかんだ。
 物の怪はじたばたしつつ叫ぶ。
「余計な憶測をしている暇があったら、昌浩の仕事を手伝え――っ。」
 ばたばたする物の怪をぎゅっと抱き寄せる。
 自分の不安も抱き締めるように、深く深く息を吐いて、呟いた。
 この種の台詞を何度聞いたかわからない。極めつけは安部家の存亡がどうたらこうたらで。
「はっきり言って、余計なお世話だよね。」
「まったくだ。」
「日々勉強します。絶対、越えてやるんだ。絶対。」
「おうよ。」
 がしがし、と筆を動かし始める。
 が、ふと手を止めた。
「・・・中宮様も、なんか言われてるのかなぁ。」
 家中の者が全て倒れるような怪異に、中宮側は震撼していた。
「・・だろうな。おまえよりしんどいかもな。」
「うー・・ん。だよねぇ。」
 昌浩は思い出す。
 彰子と同じ顔のあの姫を。
 頬肘を再びついた。
「彰子より、儚そうな子だった。」
「・・・・それ彰子に言うなよ。」
 昌浩に、物の怪は半眼を据えた。







 講義を終えた藤原敏次がやってきて、どういう風の吹きまわしと物の怪を思わせながらも、作業を手伝ってくれたので、申の刻に昌浩は退出することが出来た。
「このくらい早く帰れると、いいよね。勉強できるし。」
「だな。」
 ぽつっときた。雨だ。
「うわ。」
 思わず駆け足になる。
「強くなりそう。」
 ぽつっ・・ぽつっ・・と大粒の雨粒で、額や頬に当たる。
 足元から、動物走りの物の怪の声がした。
「急げ急げ、降ってきた。」
「うん。・・・って、え。」
 一条戻り橋の近くまできて、見たことがある袿が目に入った。
「昌浩。」
「彰子。」
「おかえりなさい。」
「ただいま・・って、彰子もだよ。早く早く。」
「そうね。」
 昌浩は彰子が両手で抱えていた袋を片手で持って、もう片方の手を彰子に差し出した。
 三人して駆け出す。
 一緒にこうしていられることが嬉しくて、はしゃぎながら。







 ざーっと本降りになった。
 狩衣に着替え、厨に行き、お湯を桶に分けてもらった。
「もっくん、もっくん。」
 簀子に座り込んだ昌浩が手招きする。
「もっくん言うな。・・。なんだ?。」
「いいから。」
 と、昌浩はひょいっと物の怪をすくい上げた。
「おあ?。」
 物の怪は桶の前にお座りをするような感じで座らせられる。
 首をかしげていると前足をつかまれ、次の瞬間、ばしゃっと桶の中に入れられた。
 目を丸くし、首をよじって昌浩を見上げた。
「やっぱりお湯の方が落ちやすいと思ってさ。」
 陰陽寮の水場に洗いに行っていたけれど。
 ふにふにと物の怪の手先の墨を落として行く。
「・・・・・。」
 物の怪は憮然としながらも、大人しくしていた。
 本当は、嬉しかったから。
「よし、綺麗になった。」
「おまえもな。」
「あ、そーかも。」
 昌浩は自分の手も見てみる。
 布の切れっ端で水気を拭いた。
 それを放り出して、外へ視線を投げる。
「このまま長雨になりそうだなぁ。」
 空模様を眺めて呟いた。
 両足を投げ出して、昌浩は一心地ついた。
「濡れずにすんでよかったわね。」
 彰子の声がしたので、昌浩は振り向いた。
 手に盆を持っていて、何か持ってきてくれたのに気づく。
 立ち上がろうとするより先に、彰子は傍に来て、盆を置いた。
 このお姫様の順応性の高さは健在で、気配りに磨きがかかっているようだった。
 かなわないなぁと心の中で昌浩は独白する。
 盆には白湯と杏が乗っていた。
「はい。」
 差し出されて受け取る。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
 雨が降る暗さを払拭してしまう笑顔で、彰子は答えた。
「・・・。」
 彰子はどんな些細なことも本当に嬉しそうに微笑ってくれる。
 それが今の安倍邸でどれだけ助かっているか、彰子は知っているのだろうか。
「彰子は、今日何を買いに行ったの?、重かったけど。」
「お塩よ。それと、杏。今が旬らしいのね。」
「そうなんだ。」
 一つ手にとって皮をむき始める。
「はい、もっくんも。」
「おう。」
 二人が食べ出したのを眺めて、彰子も習う。
 顔が緩んでしまうのは、杏のせいだけじゃない。
 昌浩は、物の怪がいて、彰子が笑っていてくれることが嬉しくて。
 彰子は、昌浩の傍に物の怪がしっかりちゃんといることが嬉しくて。
「去年は雨、あまり降らなかったのに今年はすごいわね。」
「・・・そうだね。」
 貴船の神様が封じられてましたと言うのは、告げ口みたいなのでやめておく。
 白湯を飲みながら雨を眺めてまったりしていると露樹が彰子を呼ぶ声がした。
「あ、行ってくるわね。」
「うん。ありがとう彰子。」
 ぱたぱたと走っていく彰子を見送って、昌浩はカリカリと頭を掻いて一人ごちる。
「世話になりっぱなしじゃいけないと思うんだけどねぇ。」
 整理されている部屋を振り返った。
 夕餉の前に勉強しよと立ち上がった。







END
[04/6/10]

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−Comment−

五月雨のごとく、とりとめなく・・・・。
杏は今が旬ですよ。

『触らぬ神に祟りあり』
「就職戦線異状あり」のようなタイトル。結城先生ならではであろう・・・。