Shower





 リリーナの乗るシャトルがL1コロニーに降りた。
 ヒイロは大学のシャトル造成地区でそれを確認する。
 彼女の訪問の目的は外務次官としてコロニー会議への出席と、火星探査をより積極的に行っているこの大学の視察だ。
 ドーリアン外務次官のシャトルだと誰かが呟いた。
 そう大統領選には落選して、リリーナはまだ外務次官だ。
 それが地球圏の求めた結果だった。
 戦後復興のために、彼女の力を大統領ではなく外務官として求めた。
 確かにそれが今はいいのかもしれない。
 自分たちの夢は遠のくけれど。
「・・・。」
 リリーナにはこの大学にいるとは伝えていない。どうせL1コロニーに二つあるうちの一つだからだ。
 彼女のことだから見つけるかもしれないと思う。見つかってもかまわないと思う。
 ただ今回は時間があまりない。
 メインはコロニー会議だ。
 昼食を終えたヒイロは造成地区の整備区に入る。
 シャトルの航行による機体の損傷の具合。フライトレコーダの解析。宇宙の中空上での付着廃棄物の確認などが行われる。
 中は蒸し暑かった。
 日系人の多いL1コロニーの2月の気候は、冬の気候に合わされている時期だ。
 が今日だけはマニュアルにて高温多湿にされている。
 L1病と名づけられた流感が発生したためだ。
 病が発生する原因は月面の引力に引き寄せられる宇宙の塵だ。宇宙の塵というが元々は地球で派生したもので宇宙空間で生き残れる微生物だ。
 高温多湿にすることでその微生物は消滅し、またワクチンを接種しておけばかからない。
 だが10年ほど前に最初の発生が確認され、連合の体制下でワクチンの開発が遅れ、大勢の死者を出したのが記憶に新しい。
 この病が発生するとしばらくはL1に人が寄り付かない。
「リリーナは来たんだな。」
 だってもう安全なんでしょう?、という声が聞こえた。




 ヒイロは外部操作にてシャトルを固定させていると、 リリーナが階上を歩いているのが見えた。
 特殊ガラスの向こう通路にいる。
 傍には自分のゼミの教授が話をしていた。
 シャトル整備区の中には学生が大勢いる。

 だが・・視線が突き刺さった感じを受ける。
 なんとなく今、気づかれた気がした。



「リリーナ様?。」
 クリスが訝る。
 彼女が見たことある顔をしたからだ。
「どうかなさいましたか?。」
 今回のリリーナのコロニー訪問に秘書官として再びクリスが当たっていた。
 リリーナも事情を知っている者の方がありがたかったし、その手腕は彼女を戦犯として告発するより期待するものがあった。
「・・ヒイロがいました。」
「・・え?。」
 特殊ガラスの窓の向こう。だがクリスには見出せない。
「そうこの大学にいるのね。」
 呟いて一人ごちる。
 その恋心をクリスは知っている。だからリリーナも明かす。
「リリーナ様。」
「大学にいると聞いてたんです。」
「それはもう一つは文系なので、こちらにいるのだと思います。」
 クリスは淡く微笑んだ。
 あのガンダムのパイロットが、と思ったからだ。
 もっとも平和から遠かった存在も、少しずつでもその平和に慣れようとしているのだろう。
 自分と同じだ。
「ドーリアン外務次官。どうされましたか?。」
 ついてこないリリーナとクリスを教授が呼んだ。
「いいえ。続けてください。」
 リリーナは後についた。
 その時クリスは簡易端末に呼ばれて、カバンを開けた。
 コンパクトサイズの端末は、いくつかの緊急のメールが入っていた、
「・・・・やはり・・・でも。」
 でもそのおかげで彼らが会える。
 クリスはL1病を避けてコロニー会議が明日になることを予想して、そのタイムスケジュールを用意することにした。






「リリーナ様。今日のコロニー会議は明日になりました。」
 昼食会を終えて、来賓用の個室にて書類を束ねていたリリーナにクリスが声をかけた。
「・・そうですか。やはりみなさんは来られないのですね。」
「仕方がありません。」
「でも10年も前のことなのに。」
「ゆくゆく大丈夫になりますよ。コロニー会議も明日です。かつてに比べたら早いです。それにリリーナ様がこうしていらしているのですから。」
 それよりとクリスは続ける。
「ヒイロ・ユイはこの大学にいます。大学の登録名は違いますが、呼び名はヒイロ・ユイで通しているようです。」
「・・。」
「戦災孤児にはよくあることなのです。後から本名がわかることもあれば、地域によって名前もイントネーションも変わります。あまり珍しいことではないんですよ。」
「そう。」
 自分はヒイロ・ユイだけでいい。それだけしか知らない。
 そう思うのは我がままなんだろうか。
「リリーナ様。会いにいかれますか?。」
「はい。」
 頷いた。
 声に躊躇いがないのを聞いて、変わらずに本当に好きなのだと思った。
 軍事クーデターの際、ブリュッセル大統領府目掛けてバスターライフルを放った者。
「・・・リリーナ様。ではこちらを。」
 そっと紙袋を手渡す。
「スーツでは動きにくいでしょう。それに今日は女の子たちは皆このような服で歩いていますから。」
「?。」
「デモンストレーションなんです。コロニーは安全だと。それから真冬に夏の服装が出来ることをお祭りにしているんです。」
 紙袋を覗きこんでみると白いサマードレスだった。
「どうぞ差し上げます。」
「ありがとうございます。クリスさん。」
 リリーナが破顔した。
 パウダールームにて身支度を整える。髪は結っていたのを下ろす。
 室内に戻るとクリスが手持ちのピンで耳の上を留めてくれた。
 まるで妹にする用に。
 リリーナは簡単な荷物を入れただけのポシェットだけ肩にかけて来賓室を出て行った。





 白い気配がする。
「ヒイロ」
 気配だけで驚いたのに、さらにその姿に驚いた。
 白いサマードレス。
 目立つ・・と思ったが、今日は目立たない日だというのも思い出す。
「・・・ここは、ヘルメット着用区だ。」
 間抜けなことを言ってしまう。
 ヒイロは自分のヘルメットをはずして、リリーナの頭に被せた。
「あ、はい。」
 ヒイロは足元の機器の下の戸を空けて、一つ別のを取り出す。自分に被せた。少し大きい。
 振り返ってみれば大きな大人ばかりだ。
 リリーナは顎のバックルを留めた。
 汗臭い。
 あまり体臭を感じさせない彼なので、ちゃんと汗を流しているのだと思えて、ちょっと嬉しかった。
「コロニー会議はどうした。」
「皆様はやはり敬遠して。明日になりました・・。来ているのは私だけです」
「そうか。」
 手際よく機械を操作を続ける。
 ヒイロの持ち場は大人だけで、少年はヒイロのみだ。だがその腕を買われているのだろうと思う。
 言いたいことがあれば言うし、やりたいことをやるのがヒイロだ。
「・・・。」
 正直今までサボっていたのかと思うほど早く終わった。
「終わった。行くぞリリーナ。」
 そう言って手を引いていった。
 スライドした隔壁の向こうに戻る。重力が働いて、通路に降りる。
 すぐ傍にあるロッカールームにてヒイロは着替える。更衣室は女性用は設置されているが男にはこれで十分だ。
 デニムのジーパン、Tシャツ。いつものラフな格好。
 ダンガリーのジャケットは腰に結んでしまう。
「すぐ来たんだな」
「ええ。」
「その服は?。」
「クリスさんが用意してくださったのです。L1の女の子たちはこれを着て大丈夫だって宣伝するんですってね。」
 主に学生ばかりだが。
「ああ。」
「これなら目立たないでしょう?。」
「・・・。」
 かもしれない。
「似合わない?。」
・・・目のやり場に困る。
「言わせるな。」
 ふいっと行ってしまう。
「急に来てしまってごめんなさい。でもあなたを見つけたから。」
「授業はもう終わりだ。課題も間に合う。」
「ありがとう。ヒイロ。」
 そっと横に並んだ。
「大学と聞いていたけど、KIOの方だったのね。」
 L1には2つ大学がある。
「もう一つは文系用だ。おまえが行くとちょうどいい。」
「はい。」
 そうかもしれない。
「でも、あなたはいつも本を読んでいたわ。」
 学園の中でいつもヒイロはそうしていた。
 兵隊というのは本など読まないイメージがある。だが兄もヒイロも時を過ごすのに書を選ぶ。
「読んでいたのは、そうだな。その文系の大学で学ぶようなものだった。地球にはいい本が多い。」
 そっと手を引いた。
「コロニーではOZによる焚書でだいぶ資料を失った。今、もう一つの大学ではそちらの復旧におわれている。」
「そう。」
 本がなくなるのは悲しい。
 ヒイロはリリーナを連れて大学の中庭を通り抜け、その向こうの草原に出る。
 この緑地化は先の戦争でOZが持ち込んだ排気ガスを綺麗にするため、その政策の一環だ。
 あまり人が来ないここに座り込む。大学の奴らに女連れを冷やかされるのは避けたい。
「ヒイロ。大統領選のこと聞いてもいい?」
 リリーナも隣に座り込む。
「外務次官としてのおまえを大衆が欲したんだ。それが結果だ。」
「・・・。」
「選挙運動に時間が足りなかったのは事実だな。おまえが外務次官としてやっていることと、大統領で何をなしてくれるか、どちらが大衆からすれば分り易かったかだ。」
「ヒイロは誰に入れたの?。」
「おかげで死票になった。」
 ヒイロは肩を竦めるだけだ。
 リリーナには話したいことがたくさんある。
 自分もだ。
「ノインたちが、行方をくらました。」
 ノインと言ったのは片方の名前を言いたくないからか。
「行き先は火星だ。」
「知ってるわ。ノインさんが教えてくれたの。お別れもしたわ。」
「そうか。」
 兄ではなくだろう。
「・・ゼロが見せた未来に奴はいなかった。」
「・・・。」
「地球とコロニーの間には。」
 ヒイロは真面目腐った声で呟いた。
「まさかこういうことになるとは思わなかった。」
「人の面白いところね。システムに完璧はないわ。」
 本当にそう思う。
「おまえの兄らしい。突拍子もなくて、考えが深い。」
 そっとリリーナの髪を撫でる。似たような色の髪だ。
「火星行きは俺なりに悩んだ結果なのに、ああも簡単に行かれてしまうと、悔しいな。」
 先を越された感があるのは素直に認めるしかない。
「ノインさんも兄も大人なのですよ。」
 リリーナが傍による。肩が触れる。
「私たちもいずれ。」
 地球圏を安定させ、大統領になって、開拓精神を養う。
 やることは山済みだ。
 そうして再会のキスをした。







 華やかな行進とすれ違う。
 カラフルな風船と白い服を着た女の子たち。
 この行く先でもらえるのだそうだ。
 もらう一団ともらいに行く一団が交差する。
 リリーナも取りに行ってしまった。
「ヒイロ君。久しぶり。」
 ちょんちょんと肩を突かれた。
 こちらに向かってくるのは知っていた。動くわけに行かないので逃げられない。
「ああ。」
 無愛想に応える。
「あの子のだあれ?。彼女?」
 リリーナは途中の噴水を見上げていた。
 水はほぼミストで、加湿のためのものだ。
 それが無重力に近いところへ飛んで漂うのだ。ものめずらしげに見ている。
「・・・・。」
「このあたりの顔じゃないよね。」
 明らかに人種が違うのを指摘される。
 リリーナは踵を返して行進の中に混じっていく。
「今日地球から来た。」
「へえ。そうなんだ。」
 その時風船をもらう辺りからどっとどよめきが上がった。
「・・・。」
 ヒイロはため息を一つついて、ゆっくりと踵を返した。
「ヒイロ君?。」
 もう人影の向こうだ。
 ヒイロはカフェのテーブルの間をすり抜けていく。
 声が上がった。
「リリーナ・ドーリアン外務次官」
 ヒイロを追いかけた元クラスメイトの女の子はそちらに視線を向けた。
 向けた先にはさっきの子がいた。
「え・・。」
 もう一度、視線を向けた先にヒイロはいない。
「地球から来たって言ってたよね?。」
 驚愕の事実は不確かさをはらんで、信じられなくする。
「・・・。」
 見つかった。
 だがそれもリリーナにとっては許容の範囲内だ。
 フラッシュがたかれ、ビデオが回る。
 女の子達も一団に混ざっていた少女がリリーナだと気がつく。
 彼女を中心にして広場の視線が集まった。
 テレビ桟敷で見る顔と確かに一致する。
 ただ、でも、どこから見ても自分達と変わらない。
 白い服に、背丈。
 それから笑顔。
 かつて憎んだ地球側の人間。
 リリーナは微笑んだ。
「はじめまして。私はリリーナ・ドーリアン。」
 手を差し出した。
 それがパフォーマンスだったとしても、プロパガンダよりはいい。
 スカートの裾を持って、腰を落とす。
 優雅な一面はリリーナの育ちならではだ。
「リリーナ。」
 ヒイロは呼んだ。顔がカフェのパラソルの陰になる立ち位置で。
「ごきげんよう。皆様」
 リリーナは踵を返した。
 ヒイロの手を取って街角を行く。
 マスコミが追いかけようとする。
 が、その足の無粋さを感じた女の子の一人が引っ掛けた。
 それは功績の部類だったはずだ。






「濡れたな。」
「噴水があんなふうになるのね。」
「ああ。」
 そっと手を引いてくれる。
 許容してくれるのを感じている。
「あなたといるとどうしてかしら。無茶をしても大丈夫な気になる。」
 コロニーの居住区は案外狭い。
 だから大体歩いていけてしまう。
 ヒイロは茂みの向こうの集合住居にたどり着く。
 オートロックを解除して、階段で2階へ。
 ヒイロの部屋なのだと思った。
 ドアを開けて入る。ここは靴を脱ぐ部屋だ。
「・・・。」
 地球での寄宿舎の部屋とは違い生活感があった。
 ヒイロが奥の洗面所からタオルを持ってきてくれる。
 リリーナに渡した。
「夕方から気温を下げると言っていた。そのままだと風邪を引くぞ。」
 ヒイロはベッド下から自分の服も取り出してくる。
 住居に関連するものはこの一部屋に納められているようだった。
 隣に続くのは作業関連のみらしかった。
「俺は少し課題を片付けてくる。おまえはシャワーでも浴びて休んでおけ。」
「はい。」
 そう言って、向こうの部屋にさっさと入ってしまう。


 リリーナは着ていた服を全部洗濯機に入れて、シャワーを浴びる。
 軽装で来てはいた。服は手に入るものだがインナーは手に入らないことが多いのでいつも持っている。
 ヒイロのシャツは暖かかった。
 開け放たれた部屋の向こうではキーを叩く音がした。
 リリーナは冷蔵庫を開けて、適当に食事を作る。栄養素の揃う模範的な冷蔵庫の中身だ。
 リゾットと野菜を煮た
 ヒイロの時計があったのでタイマーをそれでセットする。
 全自動で乾いた白い服を枕元において、リリーナは持っていた小さなかばんを引き寄せる。中身はコンパクトと手帳と衛生用品。
 ベッドサイドに座って、手帳を開いた。
 今日あったこと。わからなかったこと。
 いろいろ書き足していく。
 今年の手帳。
 手書きは古い形式のものだけど。
 自分は字が好きだった。とりとめもないものを書くのには特に。
「・・・。」
 バースデーカードは丁寧だった。
 普段ヒイロはどんな字を書くのだろう。




 リリーナがベッドサイドで転寝をしている。
「・・・。」
 ベットで寝ればいいものをと思う。
「風邪を引くぞ。リリーナ。」
 言っても起きない。
 そっと抱え上げる。
「・・・。」
 胸の膨らみが強調されて、少しどきりとする。
 人種のことを言われた。リリーナは北欧の出だということは誰もが知っている。
 一般に西洋人は体の成熟が早い。
 彼女も例外じゃない。
 ベットに降ろした。
 その時背後でピピピと鳴った。時計のタイマーの音だ。
 リリーナが身じろいだ。
「テディがヒイロみたい。」
「・・・俺だ。寝ぼけるな。」
「え・・。ああ、そうね。」
 夢見たいと夢見心地で呟く。
 ヒイロはキスした。
 傍にいてほしいと願う分だけ。
 リリーナは仰のいて腕を巻きつけてきた。
「・・。」
 こんなキスしても体が反応していない。
 夢見心地のまま。
 俺がリリーナを子ども扱いする理由だ。
 ヒイロは離れる。
「何を作ったんだ。」
 コンロを止めて、スプーンで混ぜる。
「あるもの混ぜただけのスープです。」
「というかこんなものを作れるんだな。」
「聖ガブリエルの小等部の女の子でも作れますよ。」
「・・・・そうか。」
 意外である。
 淑女であるのはこういうのも出来なければならないということだ。
 簡単な食事を済ませて、後片付けをしている間にヒイロがシャワーを浴びに行った。
 少し眠って食事をしたせいか、頭がはっきりしていた。
 手帳を広げて、もう一度今日のおさらいをする。
 さらさらと書き綴った後、もう少し意味を足そうと思って立ち上がり、ヒイロの仕事部屋に入る。
 ディスクとファイルと本。それから端末。
 おおおよそ事務所としか言えない部屋だ。
 辞書らしいものを探す。
 でもすぐにあるわけがないと思いたって、本棚に寄りかかるように座る。
 ヒイロが行水としか言えない速さでシャワーから戻ってくる。
 リリーナが何かを書き綴っていた。
「書く手間をそんなにとっていてよく書類が整うな。」
「思ったことは書くのが一番よ。」
 リリーナは肩を竦めた。
「何を書いているんだ?。」
「教授の説明。わからないところがたくさんあったから。」
「何がわからなかった?。」
「いろいろ。」
「見せてみろ。」
 そう言って手帳を取り上げる。
 すぐさまリリーナは手帳を奪い返す。
「・・・ここだけなら。」
 そのページだけ見せる。ヒイロはリリーナと同じように本棚に寄りかかるようにして隣に腰を下ろす。
「・・・・理論なんて話していたのか?。」
 教授がだ。
「ええ。」
 リリーナは苦笑いした。
 正直技術者ではないので専門用語がわからない。
「・・・。」
 その先を読むと、リリーナならではの考察があった。
「・・・。」
 ヒイロは黙って、ページを読み進める。
 内容はその理論がどこによって有効性をもたらすか書かれているのだ。
 感嘆の溜息を漏らす。
 表情が伴わないのでどうせただの溜息だが。
「ヒイロ?。」
「リークさせるのは真骨頂だな。おまえの。」
 褒められてリリーナは苦笑した。
 ヒイロは手帳の理論の場所に簡単な注記を書き足した。
 ヒイロの字。
 そちらの方が嬉しい。
 書き終わって、ヒイロは立ち上がった。
 本棚からノートを一冊取った。
 リリーナにはノートに見えなかったらしい。
「辞書?。」
「ノートだ。」
 ヒイロはリリーナが手帳に書いたことをさらさらと写してしまう。
「・・・・人のこと言えないじゃない。」
 自分以上に膨大な量を書いている。
 何をそんなに書くことがあるのだろうと逆にこちらがあきれてしまうくらいだ。
 ヒイロは取り澄ましたものだ。
「書くほうが残る。端末だと簡単に消せるからな。簡単に操作できるが、消すほうにも躊躇がない。」
「人の心理ね。書いたものや本は簡単に捨てられないわ。」
 見せて、とそのノートを受け取る。
 ヒイロも書きたいことをここに綴っているようだった。
 大学の分野以外のことも載っている。
 経済の理論のところは読めたので、そこを中心に読む。
 ヒイロが立ち上がって端末をまた叩き始めた。
 自分の持ち時間は明日の朝までだ。
 クリスと連絡は取り合っているのだろう。何も言わない。
 私も別れの話をしたくないからその話をしない。
 でもたぶんその朝まで居られるのだろう。
 ・・今日はいつもより長くヒイロと居られている。
 ページをぱらぱらとめくる。
 火星の記述。
 論点は乗るシャトルの素材についてだった。
 兄たちが乗っていったのはそれなりに高価なものだ。
 民間ではまず無理だ。
 ヒイロが航空で学んでいるものは、まずは地球とコロニー間を飛ばすシャトルの低コスト化だ。
 打ち上げの際の付加の軽減。大気圏再突入のシャトルの素材などだ。
 新しいものを見つける作業。宇宙を含めて探すのだ。
「リリーナ。俺はもう寝る。気が済んだらベットで寝ろ。床で寝るな。」
「ええ。」
 そう言って、リリーナは立ち上がって、元あった場所にノートを戻した。
「今日はヒイロと眠るの。」
 そう言って手を引いた。
「・・・。」
 ヒイロは簡単に言ってくれると思う。
 この場で男女について言い争う余地もない簡単さだ。
「わかった。」
 いうがはやいか抱えあげてしまう。
 リリーナは楽しそうだ。
 ベットに二人で沈んで、布団を被る。
「ヒイロと居るほうが安心するの。安心して眠れるの」
「・・・。」
 あんまり安心されたくもないが。
「いいから寝ろ。」
「はい。おやすみなさいヒイロ。」
 そう言って目を閉じる。
 ヒイロも目を閉じた。






 昨日の加湿と今日の低温で、明け方は霧が発生していた。
 地球生まれのリリーナには珍しくもないが、コロニーではほぼありえない。
 そっと家を出ると、ヒイロは階下の駐輪場にいった。
「・・・。」
 少しだけリリーナが目を見張る。
「なんだ?。」
「ヒイロってどこまでも歩いていけるから、意外だった。」
 ヒイロから借りたジャケットを着た肩で竦める。
「持っていたほうが歳相応に見えるから持っている。」
 車だとどうしても初対面の人には違和感をもたれてしまう。
 大学の学生証を見せて運転免許証は面倒くさい。
 各種いろんな施設に所用で出向くことがある。中には通常の人の歩みで1時間かかるような所もあるのでそれを全て徒歩で移動するのはやはり違和感がある。
 後輪にステップを付けてしまうと、乗るように促した。
 スカートは絡みつくほど長くない。ヒイロの肩に手を置いてステップに足をかける。
 自転車は滑るように走り出す。
 茂みを抜けて、細道を抜ける。
 昨日の広場を通り過ぎていく。
 専門店や個人商店、マーケットの看板の街頭が霧でぼんやりとしていた。
 ヒイロは軽快に自転車を走らせていく。
 なんだかほぼ一本道だ。
 ややあって、この道はL1を半周する生活道路なのだと気づいた。L1のコロニーの形状のため、サーキットのバンクのように向こうへと伸びていく。
 ヒイロはジャケットを、リリーナは髪を翻して、明け方の街を自転車で行く。
 空を見る。薄い霧の向こうに縦に貫くコロニーの夜景が見える。
 この明かりの元に大勢の人が眠っている。
 確かに人々が宇宙空間に存在して、確かに生活し息づいている。
「私は知らなかったかもしれない。宇宙を、あなたを。」
 これを落とそうとした者達がいた。
 守った者達がいた。
 リリーナはヒイロの肩越しの夜景を見る。
「・・あなたが好き。」
 今ある時間が幸せだった。





 きぃっと自転車が止まった。
 リリーナが滞在するホテルの近くの喫茶店前。
 喫茶店はまだ閉まっている。
 あたりには人の気配はまったくなかった。
 リリーナは自転車を降りて、自分の滞在するホテルを眺める。
「ありがとうヒイロ。」
 お忍びなのにあまりお忍びな気がしないのはヒイロの配慮が行き届いているからだと思う。
 プライベートが自由だ。
「また来ます」
「・・・ああ。」
 懲りずに来るんだろうと思う。
 そっと近づいて、ヒイロはリリーナに顔を近づける。
 リリーナも目を閉じた。
 ヒイロは少しだけ彼女の頬に右手を添えて、キスをした。

 人の気配がする。知っている者のものだ。
 そっと離れた。
 視線を向けて、リリーナに教える。リリーナも少しだけ振り向いて、クリスが来たことを知る。
 リリーナは頷いた。
 踵を返して歩き出す。
「・・・。」
 ホテルに入る手前、リリーナが振り向いた。
 霧でもう見いだせないはずだった。
 ヒイロは自転車に再び乗った。




[09/06/06]
■如月コメント:ヒイロリリーナでこういうのいいなぁと思うものを書き連ねー。
L1病に関しては新型インフルエンザの影響・・。
微生物ってほんと強いらしいですよ。今現在火星に送った探査機は消毒に消毒を重ねているそうです。
調査中に見つかった生き物が火星のものか地球から持ち込んだものかわからなくなるからだそうです。

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