PROLOGUE...


 東海岸ニューヨーク郊外。広い敷地の中に、鏡を使ったモダンアートなビルが建っている。平均3階建てのその建物は化学肥料、薬品から健康食品まで開発を手がけているシャロムカンパニーのものだ。
 そこが物々しい雰囲気になりつつあった。パトカーが何台も終結し、ガスマスクをつけた処理班が設けられ、各配置につき始めていた。
「・・・・。」
 窓の外を眺めてカンパニーの警備員はこの事態に戸惑いを隠せない。相変わらず、構内には警備態勢『A』が告げられていた。『A』とは法のもと活動する者も含めた全ての侵入者の排除、という項目だ。それがいくつかある手術室の一番大きな『FALLIN』を中心に敷かれていた。
「上は何考えてんだよっ。」
 がつんと警備員は腹立ちまぎれに窓のふちに拳をぶつける。社員は全員解雇されていた。開発部の医者や科学者も何人か辞めていた。
 残っているのは、幹部と狂人のような研究者のみだ。
 警備員だけ、解雇されずに、この配置につくよう命じられた。一生暮らせるくらいの退職金がもらえることになってはいたが、この状況は聞いていない。『A』の規則を実行すれば、間違いなく監獄行きになってしまうではないか。
 ハイリスク過ぎた。
「俺ちょっと、『FALLIN』に行ってくる。」
 警備員の一人が我慢しきれずに駆け出す。
 なおも、警備体制『A』と、構内放送繰り返し続けていた。『FALLIN』の正面入口は地下2階だが、指紋の照合が必要で、許可の有る者しか入れない。けれど、室内を望める2階の警備室なら自分の身分証明書で行けた。
 階段を駆け上がる。
「?。」
 踊り場まできて、階上の左の窓のカーテンが揺れているのに気付いた。
 全ての窓は締め切ったはずだった。
 警備員は眉を寄せて立ち止まる。配られた銃のうちオートマチックの拳銃をホルダーから抜いた。・・そしてゆっくりと、2階への階段を壁伝いに登る。緑を中心にあしらわれた絨毯が自分の足音を消してくれた。
 少しずつ2階の廊下が見え出して、壁が終わった。
 彼は飛び出して、銃を構えた。
 いた。
 左の廊下には侵入者がいた。
「・・・・・・。」
 だが、彼は撃てなかった。撃てるはずもなかった。
 目に映る者を凝視する。
「エンジェル?。」
 黒目黒髪の東洋人。真っ白な翼を背中に生やしていた。
 ブルージーンを着こなす、ストリートエンジェルとでも言おうか。
 ・・・・・。それでも、神が罰を下しに来たのだと思った。この研究所で何が行われているかを考えれば考えるほど、そう思えた。
 天使は誰かを探しているようだった。銃を下ろし呆然とたたずむ自分の方へと踵を返す。彼は顔を上げてはっとした。そして、逃げるようにバルコニーへと駆け出て、柵を蹴って飛んだ。
 その仕草は人間にはない軽やかさを秘めていた。白い翼を青い空に映えさせて、天使は建物の屋根の向こうに消えていってしまう。
 警備員は上層部をますます不審に思った。天使を追わず、目的の2階警備員室に向かう。社内通行証のIDカードをくぐらせる。
 照合が済み、自動で目の前のドアが開かれた。
 警備室の計器の向こうに窓ガラスを隔てて、中央手術室『FALLIN』がある。まず最初に目に入ってくるのは、十字架にかけられたジーザスクライストだった。
 この建物の外観とはうって変わって、この手術室はまるで中世の教会だ。鉄柵を設けた祭壇には、クライストの受難の場面と、彼に両手を差し伸べる大天使ミカエルの白大理石の彫像が置かれていた。そして更にその彫像の後方には、マホガニーの華麗な彫刻が穹窿へと続く。
 何でこんなものが必要なのか。
 それはこの部屋が悪魔を封じるために作られたものだからだ。
「では、執刀を。」
 パイプオルガンの代わりに、数々の電機器、蜀台に燈る赤と緑のランプ、絵画ではなくスクリーン。
 近代的な医療設備がホールに整う。
 常人の考える事じゃなかった。
「・・・・・・。」
 中央手術台から声がする。研究者たちの襟にはマイクが付けられていた。地下2階から3階までの吹き抜けの手術室と、この部屋を望めるように取り囲む各設備各施設に声を通さなければならないためだ。
 スピーカーの声をホールは何度も反射させた。
「どうやら、防護服の必要はありません。」
 「   痛ィィ・・・。  」
 手術室の四方に同じ形をした魔物が吊り下げられていた。結界を張ることが出来る魔物で、強制的に場を作らされているのだ。
 全ては、手術台に寝かされた赤い髪の悪魔の能力を封じるために。
「・・・あれが、シャロム社長を喰ったっていう悪魔か・・。」
 警備員は窓ガラスに顔をくっつけて階下を見下ろした。
 赤髪の悪魔は、鎖ではなく石畳の床に彫られた術によって更に縛られて動けないでいた。念には念をと、縛魔の術者でもあるカンパニーの副社長サリエル女史が傍らにつき、この術の効力を高めてもいた。
 手術は続けられていく。
「レントゲンの結果ですが、何も写りませんでした。」
「かまわん、これから解剖するんじゃ。無用じゃよ。それより、電圧の実験による資料を送るように。」
 何人かの研究者たちを率いているのはヒガシというすでに80歳を越えている日本人だ。
「はい、ええ、いえ、だめです。硬直が激しくて。いえ、この魔物には有りません。ですが・・。」
 マイクを通した声は、人の声なのに人の声のように思えなかった。別に悪魔がどうされようと気にしないが、こんな変人どもに付き合って自分が捕まって、人生をめちゃめちゃにされたくはなかった。
 警備員は計器担当の同僚を押しのけて、マイクを掴み取って吠える。
「ちょっと、あんたら。何だよ、あの警察は。こんなの聞いてねーよ。」
 一斉に研究者達が警備室を振り返った。
 サリエル女史はマイクを唇に近づけ、告げる。
「命令よ。黙って配置につきなさい。」
 そう言われて、余計に頭にきた。世の中、特に人の心は金だけで動いてんじゃねーよと思う。
 押しのけられた同僚も彼の越権行為を止めずに彼の行動を見守る。
「シャロム社長を殺された復讐に、俺たちを巻き込むんじゃね−よ。」
 社長と副社長が懇意であったこと、社長が赤髪の魔物によって食われたことは、社内でも有名な話だ。私怨に付き合わされていると思わずにはいられない。
 サリエル女史は毅然と言葉を返す。
「それもあるわ。けれど、この実験の結果は必ず国が買うわ。そしてゆくゆくはアメリカの発展に貢献する成果なのよ。」
 たぶんそれは、この会社柄からして、化学兵器なのだろう。科学者ヒガシの考えそうなことだ。ヒガシは戦前日本の軍医の出だ。戦争犯罪で捕まる前に研究者として渡米を果たしていた。
「配置に戻りなさい。」
 繰り返される。
 納得がいかなかった。
「冗談じゃねー。俺たちは帰らせてもらう。給料もいらねーよ。」
 同僚が横から煽った。警備員は頷く。そして、階下の連中をからかうように付け足した。
「天使まで見たぜ。あんたら罰があたるぜ、きっと。」
 ジョークのつもりだった。けれど、階下に戦慄が走った。サリエル女史の表情が強張る。
「じゃあ、なおのこと、配置に戻りなさい。絶対その侵入を防ぎなさい。」
「冗談じゃねーよ。天使に銃が向けられっかよ。」
「あれは天使なんかではない。人間だ。」
 ヒガシが、いつになく冷静でない言い方だった。警備員は顔をしかめた。とてもそうは思えなかったのだ。罰を下しにきたと思ったくらいだ。
「・・・・。おい。あれ、がそうか。」
 同僚がモニターを見つめて叫ぶ。
「まっ、窓。・・・ステンドグラスの向こうに。」
 同僚の震える声をマイクが拾った。
 天井を仰ぐと、『FALLIN』の穹窿のステンドグラスに白い影が映っていた。サリエル女史はオートマチックの銃を抜いた。何度か撃ち放つ。ステンドグラスの白い部分にパッと血が散った。
 一同が、一瞬ほっとした表情になる。
 けれど、パリンと乾いた音が小さく響いた。
 蜘蛛の巣のようになったステンドグラスに両拳を突き立ててきた。
 天使はそこをくぐり、階下を見た。
「・・・。」
 トンと、足場を蹴って、落下してくる。
 赤い髪の悪魔の上で、その真っ白な翼を開いた。沸き起こった風に、周囲の器具もろとも研究者達は吹き飛ばされる。
 天使は血まみれの両手を伸ばして、悪魔の頬に触れさせた。
 今まで堪えていたのだろうか、涙をあふれさせ、すでに意識のない彼の頭を抱え込んだ。
 サリエル女史が起き上がる。そして、再度天使に向かって銃を構える。ゆっくりと天使は身体を起こした。サリエル女史を見つめる。
 声を、マイクが拾った。

 地獄に堕ちろ、と。

 祭壇の向こうには、人口のライトが下から当てられて、人間を抱くルシファーが浮かび上がっている。
 だから、FALLIN、ここは堕天の間。