7.




 東海岸ニューヨーク郊外。
 サリエルは廊下から敷地に集まり始めているパトカーを眺めやった。
 先ほど警備体制『A』を敷いたから、しばらくは持ちこたえられるだろう。警備員の全員が全員従うはずは無かったが、何人かが頑張ってくれさえすれば警察も躊躇してくるから時間稼ぎくらいは出来るはずだった。
 縛魔の術を縫いこんだ拘束衣を着せて、カルノは輸送した。
 あのロスの病院のやり方とは何から何までたがえていた。警戒を怠らず厳重にカルノを封じる。
 この間の敗因は、結界の不十分さによるものだった。病院にはもっと強い結界を張るべきだったのだ。
 ホテルでも勇吹を封じれる結界を張ってさえいれば良かったのである。
「(でも・・・・それが出来る私が傍にいなかった。)」
 サリエルは唇を噛んだ。
 そしてマホガニーの扉を押す。
 中央手術室『FALLIN』・・・堕天の間にドアの間を滑り込むように入った。
 まだ部屋は暗い。赤いランプがかすかに点滅していて、それが教会の蝋燭の電飾を思わせた。
「・・・・・・。」
 窿穹から差しこむ清浄なまでの朝の光が、ステンドグラスの見事なカラーを映して台座へと降りている。
 そこに一体の悪魔を座らせた。
 こつっと石畳の床を鳴らしながら彼の前に立った。
「顔を出して。」
 指示された通り、傍に控えていた者が、拘束衣の顔の部分だけ剥いだ。
 ほう・・・と暗がりの中の周囲から感嘆が漏れた。
 現われた悪魔の顔がとても綺麗だったからだ。
 ステンドグラスの赤に照らされて深紅に染まった髪は陰影のある彫りの深い目鼻立ちをまばらに隠す。
 睫毛の長い切れ長の瞳がうっすらと開いた。
 視線をもらうとそれだけで射竦められ惑わされそうだった。
 今まで解剖してきたモノ達はどこか造形が不恰好だったのは、所詮人間が捕まえられる範囲のいわゆる低級な悪魔だったのだろう。
 伝説に出てくるようなすばらしさは、彼をこの手に落とした自分たちに誇りを与えた。
「・・・・・・・。」
 カルノはまず、大きく息を吸った。機器の音、匂い、・・・全ての感覚が戻ってくる。
 周りを見渡せば、ここは教会のようだった。鉄柵の向こうには十字架が掛けられ、イエスキリストがいた。
 そこから、悪魔を封じる術が床に彫られ、四方には得たいのしれない同じ形の悪魔が4体。結界の効力を強めている生贄だ。
 自分は・・・手術台に乗せられていた。
「・・・・。」
 忌々しげに前方のサリエルを見つめる。
 逃げられない。
「つっ。」
 目を合わせた瞬間、彼女の視線に術がこもる。精神安定剤を注入されたように身体の力ががくんと入らなくなった。
「う・・・・。」
 カルノはドサッと台座に倒れ頬を打ちつける。
 一人の白髪の老人が近づいてきて手を伸ばした。
 気色の悪い手。
 バチンッとカルノの身体から念動力のかけらがその手を打つ。
「さわんじゃねぇ。」
 力を振り絞って身体を捩った。その手から逃れたかった。
 けれど思うように力が出ない。肌がざわざわした。嫌悪感と恐怖が冷や汗とともにねっとりと身体を舐めていく。
 白髪の老人は痛みでわずかに眉を寄せたが、その裂かれた甲を押さえて、そのしょぼくれた小さな目を細め満面の笑みを浮かべた。
 美しいモノがこの手だけで怯えてくれる。それはたまらない快感をもよわせた。
 恐怖させることで支配権を獲得し自分の位置を高めるような男だった。それは半世紀も前の亜細亜での戦争から。
 黒目の東洋人。ネームプレートにはドクターヒガシとあった。
 サリエルが力を強めてカルノがぐったりした所を見計らって、その身体を仰向けた。
 両手を広げさせられたかと思うと、その左手首にベルトが巻きつけられてガチャンとバックルがかみ合う。
「やめ・・・。」
 もがくが右腕も両足も重くて持ちあがらない。この前みたいに砕けない。
「・・・・。」
 喜んでいるヒガシを尻目にサリエルはボディーガードの男からサバイバルナイフを借りた。
 近づいてその峰でカルノの顎を持ち上げる。
「あの人を食べた報いよ。」
「・・・・・・。」
 その言葉を言った瞬間、彼女の目は悲しみで歪んだ。声が詰まる。
「・・・・っ!。」
 その悲しみを抱きしめるように、シャロムの腕が彼女の身を包む。
「取り・・・憑かれてんじゃねぇよ。」
「守護霊よ。」
「シャロムは・・悪魔だ。」
「・・・・っ。・・・人間よ。なんてこと言うのよっ。このっ。」
 サリエルはサバイバルナイフを振りかざした。
「おっと。」
 その手をドクターヒガシが止めた。老人とは思えない強さがあった。
「食人鬼になに言っても無駄だよ。」
 彼らはシャロムが悪魔であることを知らないらしかった。
「それより痛めんでおくれ。会社がこうも傾いた以上、この実験で成果を出したい。」
 ロサンゼルスでの一件でこんな恐ろしいものを扱っていられるかと、科学者を中心に内部分裂を起こし、警察に出頭する者が出てきていた。
 彼は告発された方の科学者だ。
「彼の遺伝子の結果が出ている。バイオテクノロジーの技術においてこれほど参考になる媒体はないだろう。他社に知られる前に調べ尽くして特許を取りたい。それさえあればシャロム様の意思をおまえが継げるだろう?。」
「・・・・・。そうね。」
 彼女は腕を下ろした。
 ナイフを返す。
 そしてポツッと呟いた。
「敷島勇吹くん。」
 カルノは目を見開き、そしてキッと睨んだ。
 動けないくせに彼のためなら威嚇でも虚勢でもなんでもする。
「(悪魔のくせに・・・。)」
 そこにあるもの・・。
「・・・・彼、警察に保護されたようよ。・・・そんなに大切?、彼のこと。」
「・・・。」
「おまえのその思いに免じて敷島勇吹は追わないでいてあげるわ。実際、私の手じゃ彼は手に余るのよ。」
 聖職者としての敷島勇吹を欲しがる者達は多い。世界を敵に回すようなものだ。
「・・・彼、助けに来ると思う?。」
「・・・・。」
 東奔西走しているには違いなかったが、間に合うかがわからない。
「無理よ、あきらめなさい。彼、普通の少年だもの。」
 ドクターヒガシがTシャツを裾からはさみで切っていく。
「それにあなたと一緒にいても苦労するだけだもの。本当はもっと良い所で崇められて、なに不自由ない子のはずよ。」
「・・・・・・。」
 そうかもしれなかった。
「分析、いつでも始められます。」
 扉を開けて、5人の研究者が入ってきた。
 中央手術室『FALLIN』を囲む各研究室のカーテンがいっせいに引かれ、室内はマッドな雰囲気で高揚とした。
「では執刀を。」
 メスが胸を切開し始める。
 少しづつ裂かれていく痛み。
「(勇吹・・・。)」
 両腕をつかまれた。カルノは目を見開いた。両脇の研究者が持っていたものは短剣だった。
 それは手の平を目掛けて振り下ろされる。
 最期の封印術。
「やめ・・・―――――っっ。」
 ザグッ・・肉を断ち骨が砕ける音。
 カルノの絶叫がホールに反響した。


          ***


 広い敷地の中に鏡を使ったモダンアートな建物が建っているのが見えた。
 物々しい雰囲気でパトカーが何台も集結し、いくつもの隊列が組まれ配置に次々につき始める。
 警察にも捕まるわけには行かなかった。
「(カルノ。)」
 悔しかった。眼下の全てのものを壊してやりたくなった。・・・・けれど、勇吹は今それを押し隠した。
 マックスの情報によれば全ての幹部が中央手術室に集まっているとのことだった。
 雲の中から出た。着ているブルージーンは空の青に溶け込む。
 空を味方につけて、誰にも気付かれずにバルコニーの一つに降りることが出来た。
 窓の内側から警報がすごい音で鳴り響いているのが聞こえた。
 ひたすら、『A』、と。
 『A』とは警備体制の基準で法の元活動する者も含めた全ての侵入者の排除、と言う項目らしい。
 それが、いくつかある手術室の中で一番大きな『FALLIN』を中心に敷かれているそうだ。
 鍵を掛けそびれたのか窓が開いた。
 そっと廊下を覗き見る。誰もいなかった。
「カルノ・・・。」
 この広い建物の中のどこにいるのだろう。辺りを見回すがどの部屋の入口も同じような感じで、その部屋の中が想像できなかった。
 下手に動いて蛇を出したくない。
 勇吹は視線を横へとスライドさせていった。踵を返す・・、
 ・・と、銃を両手に構えた男が眼の端に映る。
「・・・っ。」
 撃たれるっ、と思って、勇吹は両腕で顔面をかばった。
「・・・・・。」
 彼は撃ってこなかった。
 引き金を引かず銃口をわずかに下ろし、目を見開いて侵入者を見つめる。
「エンジェル?。」
 唇はそう綴った。
 茫然とたたずんでいるうちに勇吹はバルコニーへと逃げる。柵を蹴った。
「天使・・・だって?。」
 そんなんじゃない。
 勇吹はかすかに笑った。これは使えると思いながら、同時に泣きたくなった。
「・・・・(カルノ。)」
 エゴを押さえきれない天使の行方・・・なんて決まっている。
「・・・・・。」
 中央の一番大きな尖塔のバルコニーに勇吹は再び降りた。大きなステンドグラスのある塔だった。
 辺りを伺っているうちに中から声がするのに気付いた。
「ちょっとあんたら、なんだよあの警察は。こんなの聞いてねーよっ。」
「いいから黙って配置につきなさい。」
「(・・・・あの女の声っ。)」
 この中にカルノがいる、と思う。
「シャロム社長が殺された復讐に、俺達を巻き込むんじゃねーよ。」
「それもあるわ。けれど、この実験の成果は必ず国が買うわ。そしてゆくゆくはアメリカの発展に貢献する成果なのよ。」
 実験?、成果?。
 そんな恐ろしい言葉をこれ以上聞いていたくなかった。
 中に入れる場所を探す。
「まっ、窓。・・・ステンドグラスの向こうに、いるっ。」
 震える声をマイクが拾った。
「(まずっ。)」
 そう思った瞬間だった。
「ぐっ。」
 勇吹は左肩を押さえた。銃声が響く。何度か撃ち放つ。ステンドグラスの白い部分にパッと血が散った。
 肩を掠めた弾丸の衝動が残ってそれを右足を引いて踏み込ませ勢いを殺す。
「う・・・。・・・・・。」
 押さえた手の指の間から血があふれて止まらない。甲が濡れそぼつ。
 撃たれて当たったのはこれが初めてだった。撃ってくるという事は死ねと言われているようなものだと思う。
「・・・・・。」
 勇吹は唇を噛んで悔しさと恐怖を押さえこむ。
「(誰を敵に回してもいい。)」 
 窓の向こうの敵を睨む。
 勇吹は弾痕で蜘蛛の巣のように割れたところに両拳を叩きつけた。
 ステンドグラスの破片で手が切りつけられて血が吹き出る。痛んだが、かまってられなかった。
 勇吹はそこをくぐり、階下を見た。
 ふっ・・・と、目眩が起きそうになる。異様な光景だった。
 まず最初に目に入ったのは眼下の十字架に掛けられたジーザスクライストだった。
 この建物の外観とはうってかわって、この手術室はまるで中世の教会のよう。
 祭壇には、キリストの受難の場面と、彼に両手を差し伸べる大天使ミカエルの白大理石の彫像が置かれていた。そして、その彫像の後方には、やはり大理石の華麗な彫刻が、この窿穹へと続く。
 パイプオルガンの変わりに数々の電子機器、燭台に灯る赤と緑のランプ、絵画ではなくスクリーン。
 近代的な医療設備。
 手術室の四方には同じ形の魔物が吊り下げられていた。結界を作れる魔物で、強制的に場を作らされているのだ。
 全ては台座に寝かされた赤髪の悪魔の能力を封じるために。
「(カルノ。)・・・カルノッ。」
 カルノの姿に愕然とした。右腕と左手が既になく、腹の皮膚が剥かれていた。
 トンと、踊り場を蹴って勇吹は翼をたたみ堕ちる。
「天使・・・・。」
 うめくようにサリエルは呟いた。
「(・・・・・。あ・・あ・・・。)」
 勇吹のその神々しさに惑わされる。
 罰を受けると思う。そんなことしたつもりはないのになぜかその言葉が胸の内をよぎり、嘆きたくなる。
 これほど、ビジュアルで人を圧倒できる存在はない。
 ・・・・・天使は赤い髪の悪魔の上で、その真っ白な翼を広げた。
「きゃっ・・・。」
「ぐうっ。」
 周囲から悲鳴が上がった。
 羽ばたき一つで、研究者達はもちろんサリエルもヒガシも吹き飛ばされた。周囲の器具をも倒す。
「・・・・・・か・・るの。」
 勇吹は血まみれの両手を伸ばして、カルノの頬に触れた。
「・・・・酷いよ。人間のすることかよ。」
 堪えていた涙がついに堰を切った。既に意識のない彼を抱え込んだ。
 自分の中に憎悪が生まれてくるのがよくわかった。
 サリエルはハッとする。天使が堕ちるさまを見ているようだった。
 ここは堕天の間。
 祭壇の向こうには、人口のライトが下から当てられて、人間を抱くルシファーが浮かび上がっている。
 サリエルは彼に危険を感じて立ち上がって再度銃を構えた。
 ゆっくりと勇吹は身体を起こした。サリエルを見つめる。
 声をマイクが拾った。

「GO TO HELL!.」

 涙を神霊眼の光へと変えた。カルノの右腕と左手と皮膚を造る。
「天神地祇!」
 そして、翼の一部が白い大蛇へと変化する。形を成していき両翼からそれぞれ5匹。
 直径30センチはありそうな頭を重そうにもたげた。
 勇吹は、自分の両肩を抱きしめる。
 背中から押し出すように、それらを放し飼いにした。
 そして宣言する。
「辞別けては産土大神 神集巖退妖神々」
 術の行く先はこの空間にさまよう魂を導くため、
「困々々 至道神勅 急々如塞 道塞 結塞縛 不通不起」
 サリエルの想いにつけ込み、その肉体を奪おうと取り憑くシャロムを滅ぼすため、
「痛い痛いっ・・・やめ・・、痛いぃぃ。」
 彼女の身体に術がまとわりついていく。
 そして半ば強引にも引き剥がしていく。
「(離れていく?。)」
 奪われる。もう半分くらいまで彼と同化できていたのに。一つにもう少しでなれたのに。
 シャロムの魂の温もりもまで奪うのか?
「嫌。」
「縛々々律令!。」
 ガクンッと身体を大きく揺らしてサリエルは膝を崩した。眼前でシャロムの魂が縛り上げられる。そして、
「――――!っ。」
 爆発した。
 悪魔を祓われて力尽き、またシャロムを失ったショックで、サリエルは、その意識をフッ飛ばした。
「・・・・・・・俺達にかまわなければ良かったんだよ。」
 その取り憑き方で、シャロムとサリエルがどういう関係だったか見て取れた。シャロムはいざ知らず、サリエルは間違いなく彼を好きで、自分がどういう仕打ちをしたかわかっていた。
 白蛇達はのたうった。下に彫られた術を踏み砕いていく。
 設備をかじっては飲み込んでいく。
「・・・・カルノ。」
 唇に触れて息を確かめる。胸の上下もあり、脈拍も、身体における魂の位置も正常のように思える。
 肩を軽く叩き、余り動かさないように、勇吹は彼の耳元で彼の名前を呟いた。
「・・カルノ。」
 割れたステンドグラスの窓から光のはしごが降りてきて勇吹を照らす。大蛇がのたうって騒々しい周囲から隔絶されて、彼の周囲だけ静寂に包まれているようだった。
「・・・・・・勇吹?。」
 間違いなく彼だった。この温かい光と温もりは彼しか持っていない。
 頭を揺らし起き上がると、彼が頬に触れてすごく心配げな声で呟いた。
「どこか・・・痛いところない?・・・・。」
「ないよ・・・・サンキュ。」
 宙に浮いていた勇吹の背を捕まえて、腕の中に収める。
 シャツを掴み、頬を寄せてしがみ付いてきた。
「生きて・・いてくれてよかっ・・・た。・・・・。」
 カルノは掬い上げるように頬を持ち上げる。伝う涙を吸い上げて目尻にキスをした。
「・・・・。」
 勇吹は黙って、カルノの背に腕を回した。


 ・・・・・白蛇は次第に効力を失わせてエーテルに代わっていく。
 バタバタッと、慌ただしい音がドアの向こうから聞こえた。
 勇吹はハッと、顔を上げる。
 10時ジャスト。
「カルノッ。警察が来ているんだ。逃げなきゃ。」
 傍にあった研究者のコートをカルノの肩に掛けた。カルノの両脇に両腕を掛け、翼を羽ばたかせた。けれど、エーテルに変えて小さくしてしまったため飛べなかった。それにカルノが気付いた。
 対照的な黒い翼を開く。
 白蛇が床に編まれた術を踏み砕いてくれたおかげで念動力が使えた。
 天井をフッ飛ばす。
 警察がなだれ込んでくる寸前、勇吹の身体を逆に抱きとめて、カルノは翼を広げて地を蹴った。