隣人




 道路を隔てた隣の別荘から、夜半過ぎ、物音がした。
 エレナは、リージェスが帰ってきたのだろうと思った。

 ・・・・そして翌朝、彼女は、いつものようにパンとマーマーレードと、朝一に届いたミルクを抱えて別荘の戸を叩いた。
 返事が無いので、アトリエの窓辺に行ってみる。
 彼の姿は無かった。
「?。」
 合鍵を使って、開けて入ってみる。合鍵は長いこと空けることがしばしばの彼の部屋を定期的に掃除するために持っていた。
 人の・・気配はする。
 テーブルに食べ物を置いた。
 泥棒かしら・・でもそれは彼が魔法使いなのでありえない。やはりリージェスがいるのだろうと思う。
 気配は、東の部屋から。・・あの日のままの彼の両親の部屋からだった。
「・・・・・。」
 エレナは立ち止まった。
 半開きの扉の向こう、ベットの上に彼はいた。赤髪の・・・リージェスが誰かを抱きしめているのに気づく。
 扉を押して、部屋の中に入った。
 言葉を飲むようにかすかにエレナは息を呑んだ。
 リージェスが抱きしめているのは『イブキ』だった。
 彼の絵では優しく笑っている『イブキ』が、煤と血にまみれてそこに横たわっていた。
「・・・。」
 誰がリージェスの『イブキ』をこんなにしたの?。
 そんな憤りが胸のうちを掠める。
 エレナはまず『イブキ』に、そしてリージェスの口元に掌をかざし、息を確かめた。
 ひとまずはほっとする。生きている。
 そして『イブキ』の傷の具合を見るように右手を伸ばした。
「エレナ。」
 伸ばす手を止めた。リージェスを見やると薄目を開いてこちらを見ている。
「・・・強盗扱いされたくなかったら、帰れ。」
 ささくれだった物言いにエレナは目を見張る。
「・・・至高の宝石を世界からかすめ取ってきたあとだ。」
 そこまで言って疲れたように目を閉じ、ベットに再びか、沈む。
「おまえまで守れる余裕が、今はない。」
「・・・。」
 警告を聞き遂げて、エレナは、再び彼らの傍に寄った。ベットに座り、勇吹に手を伸ばす。
 頬の礫の痕に触れた。
「それでは私も泥棒になりましょう。」
 迷える者を放って置くことは、罪だろう。
「・・・リージェス、アトリエのベットは綺麗だから、イブキをそこに寝かせておあげなさい。この部屋は片付けます。いいわね。」
 ・・・・そう、彼女は純粋な信仰者。



 そして、また一人来訪する。
「リージェス、ルシアンだ。いるんだろリージェス。」
 ドアを叩く音がする。
 エレナは戸を開いて彼を出迎えた。
「神父様。」
「エレナ・・さん。いらしてたんですか。」
「ええ。よいところにきてくれました。手を貸していただけませんか。」
「・・・。リージェスは?。」
「・・・アトリエに。」
 そう言って、踵を返した。
 ルシアンを促して、アトリエのドアを少しだけ押開く。
 『イブキ』を抱き締めて、リージェスは眠っている。
 名を呼べなかった。ルシアンは経緯を思って目を細める。
 傷ついても守って、それでここに辿りついて、でもまだ安堵できずにそうやって守るのか。
 ルシアンはエレナの持つノブを取って、引いた。静かに閉める。
「・・。エレナさん。事情は聞きましたか?。」
「いいえ。なにかご存知で?。」
 ルシアンはリビングにエレナを呼んでテレビをつける。
 そこには前日の行為のワンシーンが放送されていた。
「キリストやユダヤへの冒涜です。」
「・・・。まあ。」
 顔に両手をあて、察したようだった。
「・・。それでは神父様。手伝ってくださいな。ベットを動かしたいの。」
 エレナはテレビはそのままに、東側の部屋に向かう。
「はあ・・。」
 エレナは日常の前に、現実を受け入れて、動じないところがあった。
 今もそうだった。
「火傷しますよ。」
「先の話を悩んでいたら、部屋は片付きませんよ。」
 そりゃそうだ。
「愚問でしたね。」
 東の部屋に入る。
 ここはリージェスがほっといてくれと言った部屋だった。
 一度片付けた方が両親のためだと進言したが、
 綺麗だと、そこから彼らが出てきそうで、期待してしまうからと、言うので、やめた部屋だった。
 でも今、リージェスが良いと言ったのは、別の風景を見て取ったからだろう。
 窓は開け放たれ、ベットのマットが外に干されている。もう既に埃は払われ、ベッドの下以外の床には掃除機がかけられてあった。
 ベットを立てるように言われ、ルシアンはそのとおりにする。それから、掃除機をかけ、床を拭いた。
 エレナは、血のついたシーツを綺麗に洗い、それから適度な大きさに切って雑巾にしてしまった。
「拭くところはいっぱいありますからね。」
 と言って、今度は窓拭きを頼まれる。
 そりゃ、普段から教会の掃除で慣れてはいる・・・が。
「(これは貸しだからなー。リージェス。)」
 そうこうしているうちに、エレナは洗濯を済ませ、買出しを済ませて、簡単な料理を作り、ベットメイクをした。
「リージェス。起きて。シャワーを浴びてきなさい。」
 肩を揺すり起こす。
「・・エレナ。」
「傷口を綺麗に洗い流してちゃんと手当てなさい。」
「・・・・。」
「不精していたら回復しませんよ。」
 彼女が言うことはいつも至極事実で従うほかない。アトリエを出る。
「・・・。」
 すっかりこきつかわれたルシアン神父がぐったりソファにもたれて、コーンスープを飲んでいた。
「よう。」
「・・。」
 おまえもかよ、と言う顔をしてしまった。
「スープくらい飲めるだろ。うまいぜ。」
 確かにおいしそうなにおいだった。
「おまえの『恋人』は?。」
「今、エレナが見てくれてる。」
「神父様。」
 エレナが呼んだ。
「イブキを東の部屋に運んでくださいな。」
「はいはい。」
 マグカップを置いて、ルシアンは立ち上がった。
 ぽんぽんと肩を叩かれる。
「命があって良かったな。全てはそこからだ。」



 エレナはぬるま湯にタオルを浸して、勇吹の腕を取る。
 血や煤や泥を丁寧に拭っていく。
 傷は酷かった。礫や鞭で打たれた痕、火傷。
 勇吹は傷口に触れる優しい感触に目を覚ます。
 真っ白な天井、窓の外の青さ、吹く風に揺れるカーテン。
 寝心地の良い大きなベッド。
 ぱしゃんとタオルを浸す音がした。
「・・・。」
 ほどよく絞られたタオルが頬に当てられる。
「気分はいかが?。イブキ。」
 名前のところだけ聞き取れた。
 ああ、言葉が違うわね、と、エレナはわかる範囲の英語で名前を言う。
「エレナ・サンクと言います。リージェスの友人です。」
 ・・・リージェスって、誰?。
 顔の汚れを落としながら、話し続ける。
「みんなあなたに会いたいと思っていたわ。会えて嬉しいわ。」
「・・・。」
 くいっとその手を押しやる。
 勇吹は首を横に振った。
 ・・・関わらないで。
「・・・。」
 けれどエレナは屈んで、その頬にキスして、ゆっくりと呟いた。
「早く良くなりなさいな。私はあなたが笑っているところが見たいわ。」
 彼の絵のように、・・よりも、素敵だろうから。