青海の十字路




 青海省、ゴルムドから北西へおよそ200km。崑崙山脈にかかる平原は荒涼としていて、春先の季節風で砂嵐が起こっていた。
「・・・・。」
 敷島勇吹は移動の後、抵抗しなかった。薬で体力が奪われているのもあるが、あまり萎縮している様子もなかった。
「(たかをくくっているのか・・。)」
 覚醒剤に似た香だ。意識ははっきりしているはずで、彼の目は辺りをよく見ていた。
 四つ目・・龍雷は宙を一定の高さで、上流へと飛んだ。
 川面から5メートルほどの高さのところに洞穴が見えてくる。
 何の変哲のないこの洞窟の不思議は、出入口である穴が見る角度によっては周囲の景色の影に同化してしまうということだ。川から船で見ても、空から空撮しても、対岸から見ても、一定の中空を飛ばなければ見ることができない。
 龍雷は、すうっとその中に降りた。
 古来から洞窟が神仙の出入口の一つとされてきた所以だ。
 更に台地を20メートルばかり削るこの川も、『広大な黄色い平原』をという景色の中の一部に過ぎなかった。イエローアウトという言葉はないだろうが、この大地で目の錯覚や上下不確かなどの視界不良の色は黄色である。その黄色が洞窟をカモフラージュしてなおのことわからなくさせていた。
 大きな目が龍雷の口を使って何か呟いた。
「迎えにいってやるよ。木偶。早くお目にかかりたいしな。」
 中国語で言うだけ言って引っ込んだ。
 龍雷は、勇吹を抱えたまま洞窟を歩き出す。暗闇で明かりは無い。あるのはわずかな風の流れだけだ。しかし躊躇もなく龍雷は進んだ。
「・・・。」
 洞窟は300を数えるほどで終った。明るい日差しとともに、長い間、世間に知られることのないエリアが開ける。
 東海三山・青海北魁の修行場。
 50メートルほどの谷間に開鑿され、伽藍がそそり立つ。
 古来などは、西域の騎馬民族の侵攻の只中に立たされたこともある。中国独特の廟とは違い、西域の影響を受けた造りは、敦煌の莫高窟のように簡素だ。
 回廊が行く筋も伸び、この洞窟から伸びる道も中央の伽藍へと続いていた。
 風鐸が風に揺れ、美しくも悲しく響く。
 崖を支える柱の間から、伽藍や石窟に多くの道士達が慌しく出入りを繰り返すのが見えた。
 龍雷は勇吹を肩で背負い、廊下を行く。
 2人の男が近づいてきた。
 柔和な三日月目と大きな目をした奴だった。いつも自分に指示をだす選者のつり目はいなかった。
 大きな目をした奴が、龍雷から勇吹を掴みとる。
「木偶、動くなよ。俺だっておまえのコードは持っているからな。」
 そして傍にあった長椅子に押し付けた。
「可愛いな。・・これで男なのか。」
「・・っ。」
 顎に触れて首筋に触れられた。
 熱い・・、勇吹は身を竦めた。
 自分の体温がそんなに低くなっているのか、触れられたところから、体に赤みが帯びる。
 まるで自分の体じゃないみたいだ。
「早く全部終わらねーかな。俺はこいつがいい。」
「そう思ってる方がほとんどでしょう。」
 柔和な三日月目が呟いた。
「・・・。」
 そこに含まれる残虐な意図を三日月目から感じる。
 大きな目は口を歪ませてへっと笑った。
「回すのも、悪くないがな。」
「龍雷。・・彼を香炉の部屋へ。すぐに仙女を降ろし始めるそうだ。」
 三日月目は龍雷に向き直って、指令を伝える。
 仙女を降ろすとは、呪文で媒体の中に天界への道を開き、仙女の名を詠唱し、聞いた彼女らを媒体に降ろして捕縛する術のことだ。
 下部層の戦力補強のためだ。・・という筋書きらしいが、
 上層部の狡賢いところだ。下層には仙女をあてがっておけばよいということなのだ。
 まあ、そのために敷島勇吹を媒介にするしかないのだが、そのあとは上層部だけのお楽しみということらしい。
「・・たんと着飾ってやるように、言ってあるぜ。」
 大きな目は再び勇吹の顎を撫でやって離れた。
「ああ、尸解どもがうろついてるから、触れさせないようにしろ。」
「・・・。」
 龍雷は再び勇吹を抱え上げた。
 しばらく行くと、確かに、尸解がいた。
 尸解とは、一度死んでから仙人になったものだ。天仙、地仙と区別されて、一番下の階級の仙人のことだ。
 が、北魁では、ゾンビのことだ。
 修行の過程でそうなった者達が、骨身で動き回る。
 おぞましいが、あの世に行くことを拒否された可哀相な者達だった。
「・・・。」
 しかしこれほどの数が墓から起き上がるとは。
 龍雷は肩の勇吹を見やった。
 欲しいのは、彼の陰の気だ。自身の陽を養い、永らえるために。
 それは尸解だけでなくここにいる全ての者がそれを望んでいる。
 それを叶えることが出来るらしい。この少年一人で。
「(そんな奴をよくも捕まえる気になる。)」
 くくっと喉の奥で笑った。
 愚か故にわからないらしい。
 このあとに起こる惨劇が手に取るように龍雷にはわかった。
「(次に理性が落ちて、そのあと目を覚ませるかな。)」
 どう洞察しようとも、
 指令のままに自由を失い、自我を失うのだ。
 尸解に睨みを効かせながら、中央階段を登った。
 既に仙女を降ろす呪文が叫ばれている。
 伽藍の大扉が開き、奥の間へと進んだ。
 壇上には、御簾がかけられ、その向こうに寝台があった。
 御簾の内へ合わせ目を避けて入る。寝台を囲んで4つの香炉が紫色に灯っていた。
 この匂いを嗅いで敷島勇吹は、一度咽、脱力した。体が弛緩し首を垂れる。
 崩れるように、肩から落ちた。
 龍雷はそれを支えた。
 そう、この香は試験薬ではなく、本当に陰の気を養うための香で、麻薬に近い。
 彼を寝台に降ろすと、そそくさと給仕の女性が三名現れた。
「伝言を賜っています。1時間、休憩をとのこと。そのあとは呼ぶまで待機とのお話でございました。」
「・・・。」
 龍雷は一瞬額を押さえた。体が自由になった。
 今かけられているコードは、『主人への隷従』と『自害して果てる』ことだ。
「・・わかった。」
 踵を返し部屋を出た。