慧眼の薫香





「おいで、おいで。神つ路においで。」






 薫る。
 蜜ではなく、花の香りのような優しい匂い。



 勇吹の光が、淡く灯り始めた。
 集中すると顕著に輝き始める光。
 彼は壷を眼前に差し出した。


 ひょん・・ひょんと、小さな飛天達が肩や腕や壷の淵に絡みついてくる。
 軽やかに勇吹に笑いかけて飛び跳ねた。
「イブキサマ。」
「・・・。」
 仙女達が、そろそろと近づいてくる。
 水袖の中で両手を合わせ掲げながら。
 一度傅いたのは、臣下の礼を取ったのだろう。
 勇吹の後ろに立つ仙女は頷いた。
 そして飛翔を促そうとするが、勇吹は視線を合わせなかった。
 壷を足元に置いた。


 彼は目蓋を伏せ、そっと・・深く息を吸う。
「言霊言うこと即ち神の霊増して助けくるよしなり。」
 静かに呟いて、やや下げ気味に、両手を広げた。
「ひと」
 一つ一つ紡がれていく言葉は、この世に留まる霊を天へ強制的に送還せしめる呪文。
 よく怨霊退治に使われる。
 事実、強制的に天に送るから、この呪文を唱えるのだろうけれど。
 そんな冷酷な呪文が、勇吹が詠唱すると違って見える。
「ふた、み、よ」
 霊達を牽引する力は頼もしく、確実に天へと導ける強さがあった。
 なによりも、術者が穏やかで朗らかな笑顔で引導を渡すのだから。
 本来は、強制送還の呪文じゃないのかもしれない、と思わせる。
「いつ、むゆ、なな、や」


 こんな、優しい力があるのだと思う。



 勇吹は眼を見開いた。この眼に・・・導かなければならない者達がこの眼に映る。
「ここのたり。」

 風鐸の淋しげな音色が広間に導いた。





 清らかな力が勇吹から放たれた。
 壇上から、広間に満ち、その奔流は、通路や地下へ、そして谷へ。
「ふるべゆらゆらと、ふるべ。」
 導かなければらない者達が、その体を起こす。
 匂い・・がする。
 嗅いだことの無い芳しき薫り。
 そして生けとし生けるものが恨めしく見えるこの目に、真円の光が映っている。
「・・ああ。」
 尸解はその骨身の体を匂いのある方へ引きずり始めた。
 精霊は覚えの在る涼しい風にその身を震わせた。帰りたいと思った。そしてその風の方へ無意識に体を起こし、・・身を束縛していた枷が外れていること気づいた。
 歓喜に、咽ぶ。


 野原に吹くような穏やかな風が勇吹に向って吹き始めた。


 金の光。


 銀の光。


 先ほどの蜘蛛の糸のような力を思い出す
 大広間の300近い道士達をを圧伏せしめたのも、勇吹。





 勇吹は、穏やかに笑うだけ。
 その横顔が、

 冷酷無慈悲に映るか、



 優しい慈愛に満ちているか、



 薫る。
 蜜ではなく、花の香りのような優しい匂い。



 それは、慧眼の薫香





「・・・。」
 甘かったな・・・。
 それが意味するところで優越感を覚えて、唇を押さえた。




                     みちしるべ
「この風は天へと続く道、この薫りは道標。」
 仙女が仙界の言葉で呟いた。
「おいでおいで、神つ路においで。」
 呟きとともに、


 集まってきた霊達が全て、光の粒と化した。
「・・・・。」
 そして、ゆっくり上空へと上がっていく。
 この風と芳香と同じものがあるから、


 ―――浄土には。


 光の帯びが出来る。
 勇吹は壷を再び手に取り、掲げた。
 ひょんっと仙女達が飛び込んでいった。
 大きな体でも小さな壷に入る。
 ひょんひょんと、勇吹の周りを軽やかに跳ねて飛天達も壷の中に入っていった。



 勇吹は体の中に風を感じながら、目を閉じた。
 最期まで、見送るために。