蝸牛香炉






―女郎花―



「もし・・・。お姫殿。お待ちくださいませ」
 真昼の市で呼び止められた。
 彰子は振り返る。
「あ・・・」
 過日助けた蝸牛香炉だった。足元によってくる。
「・・・お姫殿」
「あ・・・と、ここじゃ不味いから」
「いえ・・・。すぐに・・・済みます」
 済まなさそうなのが蝸牛だと思うのだが。
「先日のお礼を・・・と」
 香炉を開けて、小さな袋を取り出した。
 念力か浮かせて、彼女の手に乗せる。
 先日と言っても二ヶ月も前の話だったような気がする。
 が、かつてより饒舌なのは元気になった証拠だ。
「香・・・です。お使い・・・下さい。寝る時にもどうぞ・・・。よい・・・夢が見れます」
 蝸牛香炉は呟いて、
 これまたどうして気づかれないのかなと思わせる足取りで、香炉売りの筵に戻っていった。




    ◇ ◆ ◇




 しとしとと雨が降り始めた。
 しばらくは曇天だったが、ついに雨になってしまった。
 彰子は足を止めて簀子から空を見上げた。
 残暑の続く中、重苦しい雨だと思う。
 踵を返し、向かった昌浩の部屋にそっと入った。
 彼は今日は物忌みで休み。
 彰子は持ってきた香炉を文机の隣に置いた。
 昌浩は茵に横になって寝ている。午後を昼寝に当てているのだ。物の怪から聞いた。
 九流の大蛇との戦いから帰ってまだ日が浅く、回復しているとは言いがたかった。
 休息に当てたほうがいい時もある。
 彰子は室内が湿らないように蔀を半分だけ下ろした。
 室内を振り返る。茵の周りの書。机の上の竹巻。
 昌浩はここ最近、机に向って本を開いていることが多くなった。
 安倍の家はどの部屋も本が多く、昌浩の部屋もまた然り。それもこの二ヶ月でぐっと増えていて、片付けるのはもっぱらそれらだ。
 何を読んでいるのだろうと、彼が日中陰陽寮に行っている間、片付けも兼ねて中を見ている。でも本当に見ているだけに近い。
 これだけの漢字を昌浩はいつ覚えたのだろう。気が遠くなるような量に彰子は深々と溜息をついた。
 同じ年の頃の公達にはこれほど漢字が堪能だった人はいなかった。勉強するのが嫌いだと愚痴るのを聞いたこともある。
 行成様ならいざ知らず、父の道長だってどれほど読めるか怪しいところだ。
 彰子は開け放たれた場所が水気を含まないように本を閉じようとする。
 が、これでは昌浩がどこまで読んだかわからなくなってしまうだろう。
 傍にあった和紙を一枚挟みこんで閉じた。
「・・・・・・」
 ふと思い立ったことがあった。
 とりあえずそれは後回しにして、辺りの本を片付けて、香炉の前に行く。
 既に火を通した炭を入れてある。
 蝸牛香炉がくれた小袋を取り出した。
 懐紙の上に一つ乗せる。
 女郎花色の薄い黄色い練香だった。
 三条邸でも合わせてことがある、秋風を思わせる清涼感のある香りだ。
 こんな高価なものどうしたんだろうと思ったが、香炉の蝸牛なので何か得意技があるのかもしれない。
 これで雨の重々しさを祓えるだろうか。
 そっと外を見る。
 おもむろに彰子は立ち上がった。




    ◇ ◆ ◇




 昌浩は目を覚ました。夕暮れが近いのか薄暗い。
 自室の天井が見えた。雨音が耳に聞こえてくる。
 顔面を押さえた。
 今しがた見た夢の顛末を、最後まで見てしまった自分に半分呆れ、半分は感心する。
 窮奇の僕として傅く自分と寄り添ってくれる彼女。
 不思議と今度は悪夢とは思わなかった。
 誓いを破った今の自分にとってそれは恐ろしく甘美な夢だと思う。
 あの時どうしてその手を取らなかったか。
 答えは一つ。
 それは幼かったから。
 ただひたむきに正義だけを反射的に貫ける。
 だが、その反射はおそらく大人になればなるほど鈍くなるのだろう。
 もはやがんぜないといえない、と誰かが囁いた。
 あとは理性や賢明さでその正義が揺るがないようにしなければならないのだ。
 そう思うと、子供の貫こうとする正義はなんて強く、理性や賢明さなど小賢しく思えた。
 昌浩は頭を押さえながら、茵から起き上がった。
「・・・っ。彰子」
 目の前の机に寄りかかって寝ている。
「え・・・」
 今の夢があまりに現実的だったので、妻戸まで一気に後ずさる。
「・・・・・・夢か」
 夢だよな。何もしてないよな。
 てゆーか俺どんな夢見たんだっけ。
 もう既に朧だ。
 それは現実の方が嬉しいからの他ならない。
 昌浩は妻戸の前で盛大に溜息をつき、部屋を見渡した。
 見事に片されている。昼寝前のあまりの散らかし具合を思い出して、少しばつが悪くなった。
 それから嗅いだことのない香り。
 彰子の香炉が焚かれていた。
 頭の中の清涼感に近い香りだ。
「(でもちょっと強いかな・・・)」
 昌浩は香りを飛ばそうと妻戸を開けた。
 昌浩は目を剥いた。
 再びか・・・寝覚めの悪いことになっていた。
 けぶる雨の中に、浮かぶ異国の装束の二人。
 窮奇が見せた俺の望み。
「・・・・・・」
 息を呑んでいる間に、雨に解け、やがて消えた。
 香りも落ち着いてきた。
「?」
 雨で濡れている簀子に黄色い花がいくつか落ちていた。
 この部屋に続いていて、もう一度中を見ると桶に生けられた女郎花があった。
 彼女が摘んできたのだろうか?。
 思っていたら彰子が身じろいだ。
「・・・昌浩?」
「あ・・・うん。ごめん起こした?」
「ううん・・・」
 そう呟いて、彰子は香炉を訝しげに見て取り上げた。
「どうかした?」
「・・・ちょっと効きすぎるかなと思って」
 彰子も同じことを感じたようだった。
「あ、うん。俺も思って、ちょっと香りを飛ばしたところ」
「ごめんなさい」
「いいよ、平気。・・・ところで、これ何の香り?」
「女郎花香」
「あんまり嗅いだことない香りだね」
 嗅ぐからに上級そうだ。
「帝がいる催しで焚かれるような香りだから」
 つまりそれは最上級の香りだ。
 父の道長や自分の祖父から譲られたという経緯になるかと思ったら違った。
「あの蝸牛香炉がお礼にってくれたの。良い夢が見れますって言って」
 そのもらい先も大概だなと思う。しっかりその香りの恩恵を受けた昌浩は遠い目をした。
 前は彰子の呪詛が発動していたせいだろう。自分はその呪詛を一度だけ抱えさせてもらった。
 ・・・今回はこの香りのせいだ。
 よい夢って・・・どう漢字変換されるんだろう。
 良い、好い、宵、酔い。
 というか、そういうよくわからないものを焚かないでほしい。
 あとで天一に進言しておこう。
 逆に問題点があきらかになっていいかもだが。
「・・・お礼ねぇ」
 今更といえば今更の話だ。
 が、彼だから納得する。
「・・・あいつ懲りずにのそのそ歩いているのかな」
「かも」
 彰子は苦笑いした。
「香りが嫌だったらやめるけど。どうかしら?」
 聞かれたので、ちょっとだけ苦言を返す。
「うーん、香りはいいんだけど。なんていうのかな。悪酔いしそう。気分良くなりすぎだよ、これ。たぶん」
「あら。そういう成分はないはずだけど。じゃあ。もう少し減らすわね。・・・あ、雨が降ってるせいかも」
「あ、そうだね」
 雨の降る日は、嗅覚が敏感だ。香りを強く感じたり、長く香っている。
 減らすとちょうどいい香りになった。
 丘の上に吹く秋風を思わせる爽やかな香り。
 そう悪くは無い。見た夢も、どちらかといえば現実で叶わない分、甘美でよい夢だろう。
「彰子はなにか見た?」
 おもむろに尋ねる。
「・・・・・・うん」
 少し返事が遅れた。
 香炉を持ち上げた拍子に香が欠け落ちて一瞬だけ香りが強く鼻についた。
 雨に映る、望み。
 冷ややかなものがこの胸に滑り落ちる。
 彼女が見ていた。
 これは香の幻覚ではなく、籠められた術なのだ。香と水で作用する蝸牛香炉の。
 ならば見鬼の彼女ならば見える。
 だけど彼女は一瞥して部屋に入っていった。
 昌浩は見送って、遅からず尋ねる。
「・・・あれは、なに?」
 彼女は知っているのかもしれない。
 ありとあらゆる窮奇の誘惑を受けて、応じてしまった彼女だから。
 彰子は振り向いて、そっと呟いた。
「・・・・・・焦がれても。」
 焦がれても
「秋の宵夢、うたかたの」
 秋の夕暮れはどの季節よりも赤く焦がれ、
 その夕暮れはどの季節よりも駆け足で。
 昌浩は彰子の顔を覗く。泣いているのかと思ったから。
 けれど憂いを帯びた歌とは違い、彼女は微笑っていた。
 そっと香炉を此方に見せる。
「せめて、うつして。」
 女郎花香。

   焦がれても
   秋の宵夢 うたかたの
   せめて うつして
   女郎花香

「・・・」
 あ、返歌をしなきゃ、と唐突に思った。
 ので、昌浩は簀子から濡れた女郎花を拾い上げた。
 匂いなんかしたっけこの花と思いながら、鼻先に花を押し付ける。
「秋なれば」
 彼女が顔を上げる。
 秋はそのまま自分のことだ。
「において居らむ女郎花」
 君を思うと
 夜寝も寝なくに。

   秋なれば
   において居らむ女郎花
   君を思うと
     よ い
   夜寝も寝なくに

「え・・・」
 呟きを聞き届けて、香炉を落とさんばかりに、彰子が硬直して真っ赤になった。
「え・・・なに?。・・・・・・て、あ」
 昌浩も言ったあとで、気がついて顔を赤らめる。
 やってしまった・・・と女郎花を持った手で顔を隠した。
 でも訂正はしない。思い切り思い付きだけれど技量を試しに作った歌ではない。
 彰子は顔の紅潮を抑えられなかったが、こそっと感想を呟いた。
「・・・万葉ね。昌浩、得意だもんね」
 技量のことしか言えない。
 でも本当の感想は自分の顔にありありと現れている。
 漢字もそうだが、万葉も男らしさを思わせるもの。
 そしてそれが昌浩の得意分野だ。
「強みね」
「そうかな」
「うん。」
 しかも女郎花合で歌うあたりも昌浩らしくて。
 これが素で出来るから、上の人には慕われているのだ。そして彼の本質を知ればもっとたくさんの人が彼を慕うだろう。・・・そのうちには女の人も。
 彰子は香炉を机の隣に戻し、本の下の重ねられた和紙の間から付箋を取り出した。
「?」
 昌浩は首を傾げて近づいて彼女の手元を覗き込んだ。
「書にはさんで。開いておくと本が傷むから」
 黄色い花弁を散らした付箋だった。それを三つ。
「押し花にしてみようと思ったのだけれど、雨でどれも濡れてて。ほとんどは生けて、花びらだけ香炉で乾かしたの。」
 そっと手渡す。
 綺麗に散らされて、しかも香りが移っていた。
 彰子の細やかなところが感じられるものだった。
「ありがとう」
 昌浩は自分が持っていた女郎花を彼女に渡した。
「どういたしまして」
 いつもの彼女の笑顔だった。



 彰子は続きをするため、机の傍に座った。女郎花を香炉に被せる。もう少し作るつもりだった。
 安倍の家は本が多いから、昌浩の家族にも使ってもらえたらいいと思う。
 雨のせいで暗くなるのが早い。が、その分夜までの秋の夕刻を長くしていた。
 昌浩は書の続きを読むことにする。
 妻戸を閉じにいく。
 けぶる雨の中で今だ漂う。
 秋の雨は降り出すと長く、しばらく一炊の夢に、酔えそうだった。
 香りが消えるまで。

「応エ」

 昌浩は嘲るように胸のうちの声に呟く。
「・・・・それも悪くないかもね。」

 そっと女郎花を選んでいる彼女を見る。
 けれど、
 目の前の君より選べる未来など、やはり無いのだ。







END
[08/6/27]

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−Comment−

万葉集はますらお振りと習いましたね。
その表現は昌浩に似合わなさそうで、でもその意味は彼に当てはまる気がします。